言葉の定義をしっかりと認識すると、世の中が違って見えますから、今回は象徴と偶像という二つの単語の違いを具体的に説明してみましょう。
偶像
1 木・石・土・金属などで作った像。
https://dictionary.goo.ne.jp/word/偶像/#jn-60455
2 神仏をかたどった、信仰の対象となる像。
3 あこがれや崇拝の対象となるもの。「若者の偶像」
ここに1本のペットボトルがある。中身は炭酸水。
このペットボトルが製造される工程を想像してみよう。おそらくオートメーション化された工場で、空のボトルが次々とラインを流れてきて、機械が中身を詰めて、機械が栓をして、機械がラベルをつけて、機械が製造年月日をプリントして、機械が箱詰めしている。
この工場で自動的に生産された炭酸水と、そうでない何かを比較してみよう。家族が淹れてくれたお茶とか、お気に入りの喫茶店のハンドドリップのコーヒーとか。
この違いは、人の手によるものか否かであり、それを「心がこもっている」「心がこもっていない」と判断したり「優しさ」と表現したりする。
しかしこれは実はそうではない可能性もあるのだが、人の脳は目の前に見えている事実だけで物事を判断する性質がある。
自動生産にはコスト削減や利益最大化という側面もあるが、高い品質のものを安定して供給するという側面もある。大量に生産するかどうかはラインの運用ポリシー次第であり、自動生産イコール大量生産ではない。
一方で、人が淹れてくれたお茶やコーヒーだからといって心がこもっているという約束はどこにもない。
こうした思い込みによって発生する思考の偏りの呼び方はいくつもあるが、すべて同じことを指している。「決めつけ」「思い込み」「常識化」など。
上記のような流れでペットボトルの炭酸水を「心のこもっていない、好ましくない工業生産品」で、ハンドドリップのコーヒーを「心のこもっている、好ましい手作業の生産品」と区分するとすれば、それを偶像化といいます。ペットボトル飲料すべてをひとつにまとめて、「印象の悪いもの」のアイコンにしてしまうこと。このアイコンが偶像です。
偶像という単語をよく見てみましょう。偶(たまたま)による像です。偶然によるイメージ。
偶は適と略々同じ、但し偶は思ひ設けず、ふと出あひたる意あり。楚策「偶有㆓金千斤㆒、進㆓之左右㆒、以供㆓芻秣㆒」
適はたまたまとも、まさにとも訓む、つまり同義なり、字彙に「適然猶㆓偶然㆒」と註す、適は、ちやうど、そこへであひたるなり。書經、註「有苗之至、適當㆓其時㆒」
禺は大頭神異のもの、隅は神異の住む四晦(しかい)の地、そのような神怪の居る山隅が嵎、その祀るところは寓、神怪のものに遭遇することを遇、そのような形の人かたを偶という。
声符は禺(ぐ)。禺は顒然(ぎょうぜん)たる姿の神象を示す字。そのような形の人かたを偶といい、偶像という。(字通)
人+音符禺大頭のさる。人に似た姿であることから、人形の意となり、本物と並んで対をなすことから、偶数の偶の意となる。(漢字源)
https://jigen.net/kanji/20598
ペットボトルの炭酸水を見ただけでは、それが心のこもったものであるのか否かは本来識別することができない。なぜならペットボトルの炭酸水という商品にとって欠かせない一番のデリバリー(あなたに届けたいもの)はパッケージでもイメージでもなく、中に入っている炭酸水そのものだからだ。それがどのような商品であるのかを確認する一番わかりやすい方法は、飲んでみることだ。
ペットボトルの炭酸水の本質は炭酸水である。ところが外部的な要素や想像、憶測、イメージから人はあらゆる影響を受けやすい。
象徴
抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと。また、その表現に用いられたもの。シンボル。「平和の象徴」「現代を象徴する出来事」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/象徴/#jn-109384
象徴は偶像とは逆さのアプローチである。たとえば先程のペットボトルの例を使うと、ペットボトルの偶像はペットボトルから勝手に生み出された個人的イメージまたはそのイメージの共有による崇拝・盲信になるが、その偶像化された「ペットボトルの炭酸飲料のイメージ」をわかりやすく表現する具体的な商品があれば、それが象徴である。また、そうした共有化された(常識化された)ペットボトルに対するイメージがもしコミュニティ(たとえば日本国内)で固着しているのであれば、そのイメージを打ち崩す商品が「ペットボトル炭酸飲料に対する消費者の既存のイメージを打ち壊す象徴」となり得る。
偶像と象徴
まとめると、
- 偶像とは、その対象に主体性をもたせないアイコンである。
ペットボトル炭酸水を作った人の思いは乗らない。外部的な評価。 - 象徴とは、その対象が主体性をもったアイコンである。
ペットボトル炭酸水を作った人の思いがわかりやすく表現されたもの。
偶像・象徴ともに、その対象(主体)が意図したものは、プロパガンダといって別のもの。偶像や象徴をコントロールしたいという人間の欲によるもので、それによって起きる行動は、我欲の象徴だ。
本物の偶像・象徴には主体による意図はない。それはごく自然に現れるもので、その人が「何を言ったか」ではなく「何をしたか」に対する評価でもある。
ここで終わりになってしまうとせっかく書いた意味がない。偶像と象徴というもののイメージができたならば、ぜひ身の回りで起きていることやそれに対するご自身の評価において、偶像と象徴がごっちゃになっていないか見直してみていただきたい。
より正確な物事の判断の一歩を進めるためのお役に立てれば幸い。
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