僕は長い間、IT畑で仕事をしてきた。同業者ならよく知っている人も多いと思うが、IT業界は、それ以外のあらゆる産業をリードすることがたくさんある。そのうちのひとつは、働き方だ。
僕がいまからここに紹介する、IT業界の革新的な働き方とは、巷でもてはやされているようなリモートワーク、テレワーク、ノマドワーク、時短勤務、育児休暇、自由な服装、自由な勤務時間といったような福利厚生の話ではない。
残念ながら、日本人エンジニアや日本のIT企業の多くがその存在を知っていながら、その本質を理解している個人や組織はまだまだ少ないことについて語る。
それは、オープンソースという考え方についてだ。
わたしたちのほとんどは、知らないうちにオープンソースの恩恵を受けている。わたしたちが使っているスマホに入っているOSやアプリ、様々なインターネットのサービスなどは、オープンソースなしでは存在していない。
オープンソースとは一体何なのか? まずはその話をしよう。
プログラムとは何か
ソース(source)というのは、焼きそばを作るときに使うアレではない。コンピューターのプログラム(アプリケーションやアプリと呼んでもいい)のコードそのものだ。プログラムというものは、プログラム言語で書かれている。それは、こんな感じだ。
print(‘こんにちは’)
これは、Python(パイソン)という言語で書いた1行のソースだ。これを実行すると、コンピューターの画面に「こんにちは」と表示するだけの、単純なプログラムだ。見てわかるように、人間に理解できる文法で書かれており、Pythonという言語を学習していれば、そのプログラムのソースは読めば一体なにをしているプログラムなのか理解できるというわけだ。
これをC言語という言語で書くとこうなる。
printf("こんにちは");
さっきの例とはちょっと違う形になるが、これがC言語の文法がこうなっているからだ。見てわかるように、基本的な文法は似ている。似ても似つかない書き方をするプログラム言語もある。
ともかく、どんな言語であれ、ソース(ソースコード)というものは、このように人間が理解できる形で書かれている。
それでは、プログラムを書いたらそのまま実行できるのかというと、そのまま実行できるように見えるプログラム言語もあるが、実際にはそうではない。
プログラムのソースは、機械(コンピュータ)が理解できる言葉に変換してやらないと実行できない。なぜなら、コンピュータが理解できるのはたった2つ。「0」と「1」だけだからだ。
なぜ0と1なのか? 自宅にある照明のスイッチと同じだ。0がスイッチ・オフ。1がスイッチ・オンだ。照明のスイッチは単純だから、ひとつの0と1だけで済む。これが複雑なプログラムになると、膨大な量の0と1の羅列になる。
コンピュータ上のすべてのものは、掘り下げていけばすべて0と1でできている。
コンピュータは、printなんて英単語を理解しない。ソースコードはすべて、コンピュータが理解して実行できる0と1の形式に通訳してあげないと動かない。
わたしたちがPCやスマホにアプリをインストールするときに手に入れているプログラムは、「コンパイル」という処理によって、プログラムのソースコードが機械語に変換された後の、実行形式のファイルを手に入れているというわけだ。
わたしたちは、商用ソフトウェアのソースコードを手に入れることはできない。なぜなら、ソースコードが公開されたら、そのプログラムを複製したり改造したりなんでも自由にできてしまうから、営利目的のあるプログラムは一般的にソースコードが公開されない。
機械語に変換された実行ファイルなら、配布しても元のプログラムはわからないから、商売的にも都合がよい。実際には、逆コンパイルといって機械語をソースコードに戻す技術もあるのだが、それをやって中身を真似でもしようものなら、著作権などを侵害して訴えられることになる。
紙に印刷されたマンガは簡単にコピーできてしまうから、違法コピーが世の中にたくさん出回る。かつてビデオテープやDVDもコピーできてしまうから、コピーできない仕組みを考える人たちと、それを解除しようという人たちのいたちごっこだった。オンライン音楽サイトで購入した音楽もコピーガードがかかっていたら、コピーできないようになっている。
コンピューターの世界ではかつて、プログラムに著作権などない自由な時代があった。民謡が皆に受け継がれて、その著作権を訴える人などがいなかったように、プログラムのソースコードは皆でわかちあうものだった。お金を出して買うべきものは、コンピュータの本体つまりハードウェアだけだった。ところが、そういうわけにはいかなくなった。なぜなら、ソフトウェア(プログラム)で商売をする人たちが現れたからだ。それで、プログラムにも著作権が適用されるのが、だんだんと当たり前になっていった。
ソフトウェアで儲けた歴史
いまビル・ゲイツが億万長者であるのも、WindowsやOfficeなど、みなさんお馴染みのソフトウェアが売れたからだ。
ところでアップルのMacの世界はどうだろうか。実はアップルは、OSを無償で提供している。フリーソフトウェアだ。さらに、アップルのオフィスソフトウェアであるpages(ワープロ), numbers(表計算), keynote(プレゼンテーション)も、Macユーザーは無料で使うことができる。
アップルは違うところでお金を生み出している。そう、MacやiPhoneのようなハードウェアを売っている。それはとてもわかりやすい。マイクロソフトは最近Surfaceのようなハードも販売しているし、昔からキーボードやマウスなどの周辺機器も売ってきたけれど、あくまでメインは、ソフトウェア企業なのだ。
アップルは、主要なソフトウェアを無料で提供する。ハードってそんなに儲かるんですね? と思うかもしれないが、実はアップルには、ハードとは別の収益源がある。
それが、サービスだ。たとえば、Apple Music。これは、毎月1,000円弱のお金を払えば、膨大な量の音楽が聴き放題というサービスだ。iTunes Storeというサービスもある。CD屋さんに行くかわりに、ちょいとiPhoneでiTunes Storeを開いて、お気に入りのミュージシャンの最新アルバムを買うことができる。
かつてジョブズは言ってのけた。iPhoneやiPodは、それを売ることがゴールではないと。真の目的は、それらを買った人たちが、サービスを使ってくれること。つまり、ハードは、サービスを提供するための道具だということだ。いくら素晴らしいサービスをネットで提供しても、それを使うための端末がなかったら、広まらないから。
Googleが、莫大な費用をかけて作ったAndroidというOSを無料でスマホメーカーに提供しているのも、同じ理由だ。Googleはもともとハードを売る会社でもソフトを売る会社でもない。彼らこそ、インターネット上のサービスでお金を生むことがメインの会社だった。
それでは、無料で提供されているMac OSやAndroidがオープンソースかというと、そうではない。なぜなら、これはフリーソフトや無料アプリと同じで、あくまで無料で使えるよということであって、そのプログラムのソースコードも無料で全部あげますとは言ってないから。
オープンソースの場合は、ソースコードも無料で提供される。オープンソースソフトウェアとは、ソースコードも無料公開されているプログラムのことだ。ソースがオープンだから、オープンソース。Open Source Softwareの頭文字をとって、OSSと呼ぶ人もいる。
ではなぜ、せっかく作ったプログラムを無料で差し出すのかって?
世の中には、オープンソースのプログラムを使う際のメリットやデメリットを書いた記事や本は腐るほどある。そんな記事に共通した特徴がある。みんな、使う自分たちの心配しかしてないってことだ。
無料でもらったプログラムになにかを付け加えて有料にして儲けを出す。
それ自体なにも悪いことではない。けれども、なぜ人はオープンソースでボランティアをしてまでプログラムを作るのか。そこについて考え方のまとまった記事には、素人にはなかなかたどり着けないのだ。
作りたいから作る
なぜ? 楽しいからに決まってる。
思いついてしまったもの。天から降りてきたアイデア。フルオーケラストラのようなに甘美な調和。
これを現実のものにしたい! そんな想いからスタートすれば、なぜオープンソースを選択するのか理解できるはずです。
「金のためじゃない」とはそういうことです。趣味を持っているあなたは趣味にお金を費やす。楽しいことをするときに、お金が儲かるかどうかは関係ない。ひとりで作りきれないものはどうしたらいい? 人を雇って作らせる? いいえ。自分たちで作りたい。自分の手で関わりたい。だから、オープンソースなんです。
オープンソースは、あなたの技術力と発想力の証明にもなる。あなた自身の描いた夢をソースコードという誰にでも読める形でオープンにすることにより、あなたのすべてが曝け出される。
あなたの書いたコードは公の場で試される。そして、言ってることとやってることが合っているかどうかも多くの人によって確認される。
あなたが正直なプログラマならば、あなたは評価される。そしてあなたの発想が十分に魅力的ならば、あなたは評価される。
あなたはプログラムという「モノ」に価格をつけることができない代わりに、あなた自身の価値を他人に認めさせることができる。
あなたはプログラムに費やした時間と労力の見返りを、プログラムの価格という直接的な見返りで得ることはないが、あなた自身の価値を認めた社会によって、あなたは価値ある活動に携わることができるようになる。
何が本当の価値なのか
ここで気がついていただきたいのは、モノに価格をつける時代は終わりを告げようとしているということだ。
人間が勝手に作り上げた貨幣価値という特殊な評価基準は、人間が作り上げたモノに対して支払われるべきであるということに、世界中の多くの人が気付きはじめている。
つまり、あなた自身の存在価値だ。
オープンソースの副次的な効果として、中身が本物かどうかを確認できるという点がある。オープンソースは無料であるからお金がかからないことをメリットに挙げるなど、オープンソースを理解していないことを暴露することと同じだ。例えばセキュリティソフトがここにある。あなたはコンピュータウイルスや乗っ取りの危険から自分のコンピュータを守るためにそれを手に入れる。さて、そのセキュリティソフトがあなたの望み通りにきちんとあなたのコンピュータを守ってくれていると、誰が保証できる? ソフトを販売している連中は、このソフトは最高だというだろう。しかし彼らは証拠を出さない。証拠を出せと言ったら出てくるのは、過去に販売した本数だとか、有名企業や政府にも採用してもらっているだとか、この業界でもう20年もやってる信頼と実績があるだとか、そのセキュリティソフトが本当に大丈夫かどうか確認することができない御託ばかりだ。
自動車の評価は、実際の性能は乗ってみればわかるし、中身を分解するジャーナリストもいる。
セキュリティソフトの使い心地はわかるだろうか? そして、分解することはできない。なぜならソースコードが公開されてないから。これは、ボンネットが封印されて開くことができない自動車と同じだ。
他産業にも広がるオープン化の波
オープンソースの話を進めてきたが、これは情報処理(IT)の世界だけの話ではない。可能性を秘めたオープン化の波は、誰が意図することもなく自然に他の産業や、所有権のあり方にまで変革を及ぼしつつある。
楽曲、出版物、ゲーム、マスメディアなどのメディア産業はすでにこの波の影響を受けている。これらはすべて、価格をつけている対象が情報(データ)であるから、早いうちに影響が出ることはわかり切っていた。
それでは、第一次産業から始まるレガシーな産業についてはどうだろうか。
これもまた、カネの本質を見直さざるを得ない流れが生まれつつある。
例えばニンジン農家を例にしてみよう。多くの人は、ニンジンが100円で売っていたら、目の前に見えているニンジンという「モノ」に100円という価値がついていると思い込んでいる。
実際、ニンジンは勝手に育つ。土と水と太陽という、どれも人間が作ったモノではない、自然の恵みに与えられたモノで育つのだ。ではニンジンの100円という価値はどこにあるのか。それは、ニンジン農家の行動にある。毎日ニンジンの世話をし、虫を取り除き、そしてあなたの食卓に届くために出荷する。それを運んでくれる運送業者の手間にも価値がついている。
ニンジンというモノに価値を置こうとするから、無限交配できないF1種などという無価値なことを思いつく。すべての植物を枯れさせる農薬を作り、その農薬に耐える品種を作り、、セットで販売する。これは明らかに、ニンジンの価値を人がコントロールしようとする無謀でおこがましい行為だ。
もっと掘り下げれば、それはカネのためではなく、楽しさのためなのだ。ニンジンを愛していなければ、良いニンジンは育てることができない。
わたしの属するITの世界でも同じことだ。カネのために作りたくもないプログラムを作るのと、「こんなもの作って人に使ってもらったらどんなに素晴らしいだろう」という夢を持ってプログラムを作るのでは、出来上がったものの質がまるっきり違う。
あなたのやっていることにも当てはめて考えてみてください。
料理人が秘伝のタレの作り方をオープンにしない理由は何だろうか?
真似をされたら儲からなくなるから? もしそうだとしたら、起きるかどうかもわからない未来に恐怖を持っている上に、その秘伝のタレがどれだけ手間暇かけて作られたものなのか、それを誰も知ることはできない。そしてあなたの発想力と、リスクを乗り越えてそのタレを開発した勇気に対する称賛も、十分には得られない。
もしあなたの秘伝のタレが、作り方をオープンにしたら評価されないモノだとしたら、あなたはそれを秘伝のタレと呼んで売っていることを恥じることになろう。その名前に見合った中身がないということだ。その評価をするのはあなたではなく、秘伝のタレを口にする顧客だ。
ビジネスモデルだって同じことだ。オープンにしたら儲からなくなるようなビジネスモデルがあるとしたら、それはビジネスモデルではなくトリックだ。
このように、オープンにすることを躊躇う理由が多ければ多いほど、それは虚業である可能性が高くなる。
アイデアや発想というものは、生まれた瞬間そのものが価値であり、その価値は永続しないということを知っていれば、それに執着する必要などないことがわかる。執着すればそれだけ、次の発想が生まれなくなる。
AIが仕事を奪うか、奪わないか
巷で騒がれている、AIやロボットが仕事を奪うかどうかの憶測に耳を傾けて、よくわからないことに対して不安を抱いている人が多い。
なにもAIに限らず、今までだって多くの仕事が文明の進歩によって奪われてきた。飛脚の仕事や馬車の馭者の仕事は鉄道や自動車に奪われた。郵便配達の仕事は電子メールにかなり奪われた。機関車の整備をする仕事は電車やガソリンエンジンに奪われた。菓子の卸業者の仕事は流通の最適化に奪われた。石炭を燃やして電気を作る火力発電の仕事も石油・風力・水力・地熱・原子力に奪われつつある。原子力に関して言えば、人は過ちも犯すが、長い視点で見れば最適化の方向に向かうのだ。それに失敗すれば人類が滅びるだけのことだ。しかし成功の可能性は常にある。今までずっと無数の失敗を重ねながらも何とか成功の道を探り当ててきたからこそ、わたしたちは生きている。風力発電という原始的な気候がまだ無くなっていないどころか進歩しているのも、私たちが進化している証拠であるし、原子力を安全に制御できる未来もいつかやってくるかもしれない。
わたしたちの多くは、現在という限られた部分に視野を狭め過ぎている。視野は広く、行動は目の前のことをする。わたしたちが行動することができるのは、過去でも未来でもない、いま現在だけだ。しかし人には、過去を省みたり、未来を夢見る能力が授けられている。ただそれだけのことなのだ。
わたしたちは変化し続けている。発想は行動の源泉だが、ひとつの発想に固執すれば、既得権益を守るという実にくだらないことに人生の時間を使うことになり、さらにはいつか、守ろうとした富を失う結果につながる。それに逆らおうとするから、人は権力という名の不公正を手に入れるという、さらに深い業(ごう)に手をつけるのだ。
AIやロボットは、仕事を奪うだろう。しかしこれを、奪うという言葉で表したくない。AIやロボットは、わたしたちが今までに生み出した無数の道具と同じく、わたしたちに豊かさと、次の世界へ進むためのチャンスを与えてくれる存在だということだ。踏みとどまろうとするコンフォート・ゾーンから抜け出して、新しいことにチャレンジする勇気を支えてくれるのだ。
馬車を失った馭者は、人生に絶望して死を迎えるしかないのか? そんなことはない。次の役目がある。詩人になってもいい。ドライバーになってもいい。自由なのだ。問題は世の中にあるのではなく、あなた自身の恐れにあるというだけのことだ。
不公平とは何か
絶版になると高くなる本。レアになると高くなるってどういうことだろう?
これに疑問を抱いた人はたくさんいるはずだ。
ニンジンの価値は変わらないはずなのに、今年は不作だというだけでレアになるから値段が上がる。
ついにはこれを利用して、市場に出回る商品の数をコントロールしてまで、価格を維持しようという流れまで存在する。ニンジンを愛するはずのニンジン農家が、カネのために自分が育てたニンジンを大量に廃棄するのだ。
これはひどい、と同意する人も少なくないだろう。それでは、次のステップを話そう。
転職活動をしたことがあるだろうか?
転職活動するときに、なるべく高い給与の仕事を探したりしないだろうか? 仕事内容や給与以外に、大事なことを見落としてないだろうか?
その会社がどのような価値観を持って社会と関わろうとしているかだ。
それを会社の理念とかコーポレートガバナンスと呼ぶ。
あなたがその会社に入ったら、あなたの価値観がどうであれ、その会社の価値観を現実化することに加担するのだ。
そこがいちばん大事な部分だ。
同じ仕事をするのに、、なるべく高い給料のところを探す?
あなた自身の価値が向上してないのに、昇給を求める?
価値の不均衡が起きる。
あなたが得るお金を増やしたかったら、あなたの価値を上げるしかない。それは、役立たずの資格ではなく、実践的で実際的な価値だ。その価値というものは、それを使って誰かを喜ばせることができることだ。
成長なくして得るものを増やそうとする人が、ニンジンの操作的値上げに文句を付ける。これは壮大なダブルスタンダードである。
オープン化がもたらすもの
オープン化とは、なにも作ったもののことだけではない。それを実践するあなた自身が、あなた自身をさらけ出しているかどうか。つまり、あなたがオープンな生き方をしていなければ、オープン化の真理を理解することは決してできない。
そしてオープン化は、公正さをもたらす。
是非ともこの機会に、公平と公正の違いについて調べ、考えるところから始めてもらいたい。
あとがき
皆さんお気づきかもしれないが、この投稿は未来のビジネスを俯瞰し、広い視野で戦略を立てるために重要なヒントが詰まっている。著述したわたしは、これを一冊の本にして販売することもできたがそれをしなかった。そう、この文書もまた、オープンなのだ。パブリックドメインへの寄稿である。
宣言する。わたしはわたしの持つ知識や視点に値段をつけることはしない。なぜならこの文を読んで、ひとりでも多くの人がより公正で楽しい未来を作り上げることに貢献してくれたら、わたしの夢見ている世界が一歩ずつ近づいていくことを楽しみにしているからだ。
ノウハウを売る諸君へ告ぐ。知識を商材にする時代は終わった。今すぐに自分のやっていることが本物の価値ではなく、まやかしのでっち上げた価値まがいのものを人に与えてカネを奪っているという事実を受け入れた方が身のためだ。これは脅しではない。事実を率直に伝えているに過ぎない。
わたしたちの本当の価値は、そんなに軽薄なモノではない。自分を安売りしてモノに頼るのはやめて、自分の足で立ち、前に踏み出す。そんな時代がやってきた。
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