成長について

自分が何者であるかについて自ら進んで口にしたことはあまりない。

常に感じ方や捉え方の共感や違和感がある世界で、心のどこかで信じていたことがあることを意識した。それは、

いつかどこかで、己と同じ価値観を持った人と巡り合うということ。それが単数なのか複数なのかはわからない。己の価値観を肯定する存在を求めているのではない。イメージの中には、そんな世界がどこかにある。コミュニティのような、社会のような何か。

わたしはそれを探し求めてきた。なぜならその価値観を深いレベルで共感できる者たちが真の『仲間』であると信じて疑わなかったし、信じて疑わないそのことについて意識するまでもない僕の大前提だったからだ。

表面的に共感を得た相手との間に感じるどこはかとない危うさは常に、掘り下げていったときに表面化する価値観のズレに結実した。若かりし頃のわたしはこれを、日本の課題であると部分解釈をしてしまった。

しかしどれだけ世界を見渡しても価値観の合う存在は現れなかった。僕にとって価値観を言葉で表すとすれば、それは中庸を突き詰めたときに現れるものだ。長い時間をかけることを潔く覚悟して己を表現していけば、自ずと相手も心を開き、心の通じ合う会話が成立する。その過程で互いに学び合い、影響し合い、価値観というものはそのように変化しながらより高みに昇っていく、生きた存在である。それが可能なのだから、どこかで誰かとそれがしたい。

なぜ仲間を探すのか。それは己の使命を果たすことが1人の力では為せないと思っていたからだ。

しかしどれだけ世界中を探し歩いても、そんな存在はなかった。孤独だった。

1人でやれることを精一杯やりながら、心のどこかで仲間と巡り合える日を夢見ていた。

たとえ僅かでも依存心があればこの使命は果たせないということは今思えば明らかだが、当時はそう思うに至らなかった。仲間を夢見ることも許されないと思い知らされ、孤独を受け入れ、己の命への執着をも神棚に捧げ、そうしてようやく理解した。

意識の世界において時間は存在しないこと。

己の作り出した迷路を打破したときに現れる新しい解釈を観察する方法を手に入れたのだ。

その瞬間から世界は変わった。そのきっかけは明らかに、ある人との出会いだった。光明は、探すことを完全に諦めたときに現れるものだ。

わたしはそれから試練を受け入れなければならなかった。過去の自分のドグマや罪を全て昇華させるためである。それまでの人生で経験した苦しみが娯楽に思えるほどの苦しみだった。

それでもなおその苦しみに立ち向かうことができたのは、それ以外に生きる道がなかったからだ。生ける屍になる道は常にあったが、それは死よりも恐ろしいことだった。人を救うと思われている薬が実は毒であったと知ってしまった医師は、その薬を人に与え続けることはできない。

わたしがなぜこのようなことを書いているのかを明らかにしておこう。わたしはこの個人的な経験を知ってもらうことで何かを得ようとしているのではない。このような流れは、己の信念のもとに生きる全ての人にとって共通のものであり、わたしだけ特別なのではない。程度や状況の違いこそあれ、己に対して誠実に生きれば必ず突き当たるものだ。限界ギリギリで生きている人たちが勇気を得られる可能性を思って書いている。

己を信ずれば道は開ける。わたしの実体験はそれを示している。

己とは何か。それを掘り下げずに課題を乗り越えることは不可能だ。己という存在を常に再定義し続けていくこと。それは幸福の実感をももたらす。この幸福感こそが、言葉にならない大切なことを示している。わたしは、わたしのやりたいことをやって、得たいものを得て、与えたいものを与えているという実感だ。

自分が自分を信じてあげられなくて、誰が自分を信じられるだろう。わたしの過ち、それは遠く昔に得ていた啓示を自分ごとにすることから逃げようとする弱い心。その啓示はあまりにも壮大すぎて、わたしには似つかわしくないと思い込むことにエネルギーを費やしてしまったこと。しかしそれも必要な過程であったこと。

明らかにわたしというひとつの肉体の中に、2人がいた。ひとつは神、ひとつは悪魔。

悪魔との戦い方は、突拍子もないように聞こえるかもしれないが、ノリツッコミである。

つまり、反発するのではなく、一度は受け入れてあげる必要があるのだ。生半可に受け入れるのではなく、その悪魔のエゴになり切ることで本質を理解するのだ。どのような暗闇の中でも光を求めることをやめない己の全てを信頼して、恐れずに飛び込むことだ。これはすべて、心の中の出来事の話だ。

神という存在があるとすればそれは全能である。ではなぜ神が最愛の天使ルシフェルを地獄へ堕としたのか。再び書くが、神は全能である。ルシフェルの体験すらすべて超越的に理解しているのだ。

わたしの中の悪魔は、完全なる理解という名のもとで昇華した。

ではなぜ、すべての人がこの経験を得ないのか。それは、選ばれた人にだけ与えられるものではない。すべての人は平等に機会を与えられている。この経験を得ないのは、己から逃げているからだ。逃げることの善悪について語るの無意味だ。すべての行動はただ原因と結果の法則のもとにある、それだけのことだ。己の人生の選択権は己に委ねられている。これが自由であり、慈悲である。

使命を諦めないということは、それ以外を諦める覚悟に他ならない。使命を疑うということは、誠実に生きるということに他ならない。

己が何者であるか、の答えは、己が今生において何をなすべき存在であるかということであり、さらにその先にある大きな流れを理解する旅を続ける存在であるということを意識することではないだろうか。