ゾーン

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僕のことをよく知る人には誤解されようがありませんが、一部の方やブログを読んでいるだけの方には誤解されやすいことがあるので書いておくことがあります。僕は逆転の発想から物事を検証すること、つまり反証の活用から複数の仮説を並行していくつも膨らませていって、最終的に自分なりの結論を導く傾向があります。なぜなら現在僕がいま向き合っている問題(ProblemじゃなくてQuestion)を解き明かすためには単一視点からのアプローチでは歯が立たないからです。

脳内でとっている複雑怪奇なアプローチを言葉で説明することは難しいのですが、それらを論理的に示してくれるものが科学、感性で表現してくれるのが芸術、経験則的に示してくれるものが伝記や宗教だと捉えています。つまり科学も芸術も宗教も、突き詰めていけば同じものを違うものの見方(観点)で観察した結果であるということができます。

科学についても、芸術についても、宗教についても他者の定義と僕の定義で微妙にズレがあると感じることがよくあります。

科学的な推論を立てる際には、ある程度までの簡易な問題(僕が簡易と感じる問題)については古典物理で例示できる(比喩できる、に近い)ため、語弊がありませんが、現代科学の話をする際には、古典物理学の世界観から脱していない方との会話は、まるで僕がこの世に存在しないエーテルや魔法のようなオカルトの話をしていると捉えられてしまうことがあります。これは地動説を唱えたコペルニクスがオカルトのレッテルを貼られていた時代と状況的に何ら違いはなく、現代人であろうが人間としての本質は中世も今も変わっていないし変わる要素もなかった証左であると認識しております。

宗教においては、まず現代日本人の多くが宗教観というものに対してトラウマ的な誤解を抱え込んでいると感じます。あえて日本人と書いたのには理由が2つあります。ひとつは、無神論者が多いという現実の話。神論について学んだ上での無神論者は僕の知る限り少ないです。もうひとつは、日本人やそれ以外の人たちとの対話をいままでの人生経験で積み重ねてきた体験から得た感覚です。「神を信じている」と発言するだけで、ある特定のイメージを相手に抱かせてしまい、非論理的な盲信者であるというレッテルによって、それ以上の議論を阻害されてしまうのです。そもそもレッテルを貼る側が信じ込んでいる「神」の定義と僕が信じている「神」の定義がまるで異なる次元の話であるということを相手に理解してもらわないことにはどうにもならないのですが、話しても無駄であれば「どうぞご勝手に」と対話を諦める以外に方策が思いつきません。

芸術についても似たような状況があります。ただし芸術の場合、作品の解釈の自由を理解している方が多いようで、あまり過激な反応をされることはあまりないですが、ストリートアート、ポップカルチャー、アンダーグラウンドにおいては主義主張の強い方が多い傾向にあるようです。

科学・芸術・宗教のいずれにおいても、個別の主義主張を持つことは「自由」であり、発展のためにはむしろ「必須」のものです。

僕は現代日本があらゆる側面で{成長しなくなってしまった|成長が緩やかになってしまった}大きな原因は、議論というものを誤解している方が多いからだと思っています。

知的な議論とは感情的に相手を打ち負かすことが目的ではないです。議論は戦争ではありません。そのベースには、だいぶ前に本ブログでも書きましたが、「真実はひとつではない」という大前提があります。

「白黒はっきり付けようじゃないか」という言葉を耳にすると僕は完全に議論する意欲がなくなります。

議論というものは僕にとって知的な遊びであり、その感覚を共有できる人とだけ僕は議論が成り立ちますから、マウントを取ることが目的の議論には興味がありません。

「Aが正しいか、Bが正しいか」という議論をする際も、実際には「ある条件においてAとBのどちらを選択すべきか」ということですから、互いの意見に耳を傾けて、新しい発見をしながら議論を進めていくのが楽しいのです。

たとえば僕が「Aが正しい」と主張していたとして、相手が「Bのほうが正しいと思う」といえば、僕は「相手がどうしてBが正しいと思うのか?」という知的好奇心でいっぱいになります。だからBが正しいと思う相手の主張をきちんと問いたい。主張が納得できれば「なるほど! そういう見方があったのか」という新しい学びにつながりますし、相手の主張に納得できない部分があればその部分を指摘して、それについてさらにどう思うのか掘り下げていくことができます。結果、僕と相手の両者がすべての見解を出し尽くして、掘り下げきったところで、両者の相互理解が深まるわけです。その時点でAに対する見方もBに対する見方も、議論を始める前とは異なっている(進化している)はずです。

この議論を「めんどくさい」とか「理屈ばっかり」とか言われちゃうともう、がっかりなんです。子供の頃よく大人に質問して「うるさい」「自分で考えろ」「それはそういうものだから、疑問に思わずそのままそう覚えればいい」とか返されちゃって悲しくなった状態に似てます。


議論を続けるにも、ひとりで推論を進めるにも、集中するにも、最近よくマインドフルネスと呼ばれる状態になるのにも、スタミナが必要です。求められるスタミナの種類が違います。脳科学の世界には「Use it or lose it」(使うか失うか)という言葉があります。つまり脳の機能も筋肉など人体の他の組織と同じように、「使わなければ衰える」という鉄則があるのです。これがあることにより、脳細胞にしろ筋肉細胞にしろ神経細胞にしろ、使用頻度の高い部分はより強化され、使用頻度の低い部分は衰えることによって個性のある全体が構成されていくわけです。自転車選手とサッカー選手の筋肉構成や心肺機能の特徴がまったく異なるように、神経や脳も個性が出てくるというわけです。

筋肉が衰えれば寝たきりになる。脳が衰えれば痴呆になる。ごく当然のことです。人間は楽をしたがる生き物です。では楽をしながら筋肉や脳を鍛えるにはどうしたらいいでしょうか。僕が出した結論は、脳や筋肉を鍛える効果のあることで、好きなことを見つければいいということです。

『考える』ということについて、集中力があるかないかだけを問題にしていてはヒントは得難いかなと思います。

集中というものはまず、外界に対してなのか、内面に対してなのかという、フォーカスするポイントの問題があります。カメラに例えると、マクロか望遠か、に近いですね。

次に、フォーカスする範囲があります。一点集中するのか、広くとらえるのか。カメラに例えると絞りです。広く考える時は絞り開放ですね。

これら「内側・外側」「狭く・広く」を自在にコントロールするようになれることがバランスの取れた脳の使い方と思います。あとはシャッター速度とか画角とかありますけど、その辺はさらに先の話で良いのかなと。

例えば同じ内側に向かう脳の使い方でも、広く脳を使っている時は、マインドフルネスとか瞑想とか、お風呂に浸かってるとかリラックスしてる時に限りなく近い状態だと思います。狭くピンポイントにフォーカスしてる時は、おそらく多くの人が『集中している』と認識している状態です。

脳がゾーンに入るというのは、感覚でしか説明できなくて申し訳ないのですが、『広くて狭く』という、どちらも同時にできている状態です。全体を見渡しながら、その要素要素にもフォーカスできているという、超明瞭でスローモーションのように見える状態です。

頭の中に言語はなく、全て自動処理のように何をすべきか理解していて、理解する前に体や脳が勝手に処理しているような錯覚に陥ります。

僕は脳内活動でゾーンに入る経験は何度もあるのですが、身体的なこと(つまり運動)においても何度か経験があります。

中学時代に陸上部で100メートル走の県大会決勝まで行ったのですが、その決勝のレースでゾーンに入りました。

もっと最近の話だと、30代でダーツにどハマりしたことがあるのですが、やり込みまくってたある日突然ゾーンに入り、ダーツボードがまるで目の前30センチくらいの場所にあるかのように見えてきて、入れたいところに入らないわけがないという根拠も何もない確信が揺るがなくなり、思った通りのスコアが出るんです。これは集中が切れるまで続きます。当時Cフライトというランクだった僕がオンライン対戦でAAフライトやAフライトを負かしまくって、ハット(3連続ブル)やホワイトホース、ハイトンを出しまくれるようになっちゃうのです。

ゾーンに入るためには体感的なコツがあるのですが、日々の練習というものは、ゾーンを目指すような形になります。一度体験するとわかりますが、あの無敵状態スイッチが入るようにするためにはどうしたらいいのか、という観点で練習すると、僕はダーツに限らずなんでも上達が早くなると信じてますし、過去の経験でもそうでした。

ゾーンに入るために必要なものは言葉で説明するのはとても難しいのですが、ただ練習や勉強をしてればいいというものでもないのです。負けない信念というか自信のようなものも強く持てなければいけませんし、少しでも迷いがあったら入れません。ワクワクしてたまらん!悟空の「オラ、ワクワクしてきたぞ!」に近いものがあると思います。負けたくないとかいうレベルではなく、負けるはずがないに近い確信が必要だし、ピンチを楽しめるような感覚です。

ゾーンを、社会に既存のルールで活用すれば、スポーツでいい成績を残したり、学業で成果につなげたりすることができますが、これを「狭く集中」だけに使おうとするのは、マジで勿体無いです。

内側・外側、集中・広範囲、浅く・深くのコントロールができるようになると、思考の領域が爆発的に広がります。それ以前とそれいごではもうべつせかいです。

僕は以前からゾーンに入りやすい傾向があったのですが、心臓発作で死にかけてから明らかにこれが上達したというか、コントロールできる範囲がバーンと広がりました。

なぜ死にかけた経験がリミッターを解除したのも、今では感覚でわかります。

そして死にかけなくてもリミッターを解除することは可能だなと思いました。(簡単ではないです)

なので僕はこのブログに、リミッター解除のためのヒントを日々散りばめて書いてます。

冒頭に書いた「科学、宗教、芸術」の部分も、ゾーンの部分も、全て関連性があることです。

Open your doorがマジ大事です。

こうして比喩表現で語ることが多いのは理由があってのことです。僕のブログ記事は全て比喩に満ちてます。細かい比喩の集合だけでなく大きな比喩も入ってたりします。

楽しめる方が現れるのを待ってます。

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