低木が浸潤し領地を主張するとき、ふと見上げればそこには広がる枝葉とその隙間から無数に木漏れる光のコントラストがあり、それを支える途方もない太さの幹がある。それはおそらく、望んでも到底手に届かぬ自由の夢に見えるのだろう。
しかし同時に、眼下にはゼンマイとかコゴミとか、名も知らぬ雑多な草木が少しでも木漏れ日に肖ろうと、せっせと背伸びに精を出している。
全ては同じ比喩。これがときにフラクタルと呼ばれ、ライフサイクルと称される。全盛期のシチリアマフィアのゴッドファーザーさながらに、他にも無数の通り名がある。円環の理、閉じた生態系、インナースペースとアウタースペース、摂理、多次元構造、多元宇宙、IUT理論、カバラ、量子論と宇宙論、モナド、ハイヤーセルフ、ビッグバン、フィボナッチ数、FP、引き寄せ。
車輪の再発明は様式美としてその存在に批判的な印象を抱くことはないが、僕にはそのモチベーションが理解できない。
村上春樹の作品中の表現を借りると「中心がいくつもあって、外周が存在しない円」について想像してみること。
僕の存在の中心は対比の間の絶妙な均衡点にある。俗に言われる左脳を使った活動、理論、情報システム、コンピュータ。右脳を使った活動。表現。美。感性。直観。その間にあるもの。目に見えないもの。意識だけでは理解ができないもの。
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