qube cafe 1st anniversary

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キューブカフェを始めて1年が経った。

キューブカフェを始めたきっかけは、高い志でも覚悟でもなかった。

時間を遡る。

あるとき、「自分が生きている理由」を思い出した僕は、全人生を賭けてチャレンジすべきものに目覚めた。
身震いした。
生きているうちに達成できるのか、その高い山の裾野までたどり着けるのかもわからない、高い高いところにそのゴールはあった。
それでも僕は、命を賭けるだけの価値があると信じて疑わなかった。(今でも疑ってない)

しかし人生はそんなに甘くないのだ。
高い望みを叶えるために、僕の人生の道標はスーパーハードモードに一瞬で切り替わった。
今まで学び取ってきたもの、感じ取ってきたものすべてをぶつけて、僕は盛大にずっこけた。
それでも諦めきれず、打ち続けた。命を打ち続けた。
そして僕は心臓を半分失って、とうとう負けを認めた。
それが3年前の話。
それでも生きているだけで丸儲けだということを理解したのは、かけがえのない収穫だった。

それから僕は変わり続けようとすることをやめた。
45年以上続けてきたことを全部やめたのだ。
そこに至るまでに、どれだけの人たちに支えられたりヒントをもらったりしてきたことか。
誰一人として語らず、ただ背中を見せてくれてきたのだ。

幸せを取り戻しながらも、あいかわらず僕は何かを見失ってしまっている感覚を払拭できなかった。
これは本当に平和なのだろうか。

すべての人との繋がりを手放したことがあるだろうか。
勇気を出して手放してしまうと、必然という流れが見えるようになってくる。

そして僕は荒川に流れ着いた。

そこで高い志も覚悟もなかった。
ただ、僕に教えられるとてもシンプルなことを
目の前の人に教えただけなのだ。

まさにそれが、キューブカフェ誕生の瞬間だとは知らず、
僕は水橋さんに、fc2ブログの使い方を教えただけのつもりだった。
僕はなにか、関係性を求めていたのだろうか。
それとも関係性を求める何かに反応していたのだろうか。

ともかく1年が経過して振り返ってみれば、
僕は、以前とまったく違うやり方で物事を進めていた。

意図せずに、なにかとても貴重なものが生まれた。

こいつを温めようとしたり育てようとしたら、また負ける。
これがいまの僕にできる等身大で最大の極意だ。しょぼいけど仕方ない。
だから僕は、温めようともしなかったし、育てようともしなかった。でも僕は、人に恵まれた。人が集まってくれて、なにかエネルギーを与えられているかのように僕の失われた(と思い込んでいた)「意思」が回復していった。

勝つためにはどうしたらよいか。負けないことだ。

さいきんの僕の成長といえば、予兆や感覚に敏感になっていることだと思っている。

正しいことをする。
それは飾らない素の自分を探求することであり、
宇宙をまっすぐに捉えることである。

あれをしたい、これをしたいと思うことが減った。
それは余計な段階だからだ。
「したい」と思う前にやってしまえばよい。
具体的に動くのか、それとも戦略を練るのか、ストーリーを紡ぐのか、なんでもいいのだ。

ビジネスのドグマに囚われない。
経営のドグマに囚われない。

これには相応の鍛錬や集中や活力や他のさまざまな調和がなければ成し得ない。

わたしたちはなぜ生きるのか。
キューブカフェがその疑問に対する最高の答えを持っている。
なぜなら創始者の僕がその答えを持っているから。

「なぜ」という問いは一体何か。

「何」という問いは一体何か。

ほらね、ここまで来られるかどうかわからないところまで来た。
人生は思いがけないことの連続だが、不調和は無い。
矛盾もないのだ。

本稿をもとに書き直したものをキューブカフェの公式サイトに寄稿しました。

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