キューブカフェには、年配の方がたくさんいらっしゃる。そしてキューブカフェを始めたきっかけをくださったのも、来年卒寿を迎える水橋さんだ。
「年寄」意味:
1 年をとった人。高齢の人。老人。
2 武家時代、政務に参与した重臣。室町幕府の評定衆・引付衆、江戸幕府の老中、大名家の家老など。
3 江戸幕府の、大奥の取り締まりをつかさどった女中の重職。
4 江戸時代、町村の行政にあたった指導的立場の人。
5 大相撲の関取以上の力士で、引退して年寄名跡を襲名・継承した者。日本相撲協会の運営や各部屋の力士養成に当たる。
キューブカフェにおいて年寄はまさに、深く幅広い人生経験を活かし若者を導く重鎮だ。
年配の方の行動は大きく2つのタイプに分かれる。
- 未来にチャレンジしているタイプ。
限られた時間(残り少ない人生)を充実させて毎日をいかに有意義に生きるかを追求している。死の覚悟ができている。 - 過去に囚われたタイプ。
昔とった杵柄の話ばかりする。未来の不確定事項(病気、死、不慮の事態)に怯えている。
未来にチャレンジしているタイプの方は認知症にもならないし、寝たきりにもならない。老化もうまく管理している。状況にとらわれず、利用していく強さがある。現在やっていることに満足しているし、無駄なことはしない。たとえ今チャレンジしていることを達成する前に死んでも、やりたいことをやれていることに後悔しない。
過去に囚われたタイプの方は何かに依存しやすい。老化や病を恐れ、思考停止しがち。年齢を理由に、やらない言い訳をする。
未来にチャレンジしている年寄の方々は、自分に残された時間が少ないことを知っている。親はとっくに死に、配偶者やご友人など、身の回りの方々も次々と亡くなっている。この世界に自分がまだ生き残っていることの意味を感じている。いつ自分の番が来てもおかしくないと覚悟して毎日を過ごしている。
だからこそ、彼ら・彼女らは、無駄を徹底的に排除する。若者がどう意見しようが、どう強制しようが、彼らは彼らの価値観をもとに、自分が思う一番効果的で、ゴールへの近道だと信じている行動をとる。
なぜかキューブカフェにはそのタイプの年寄がたくさん集まってくる。みなさん行動的で、意欲的で、活力あふれ、体力も精神力も充満しているのがわかる。僕はそんな方々からたくさん活力や希望を分けていただいている。
わたしは来年50を迎えるが、彼らから見たらまだまだ子供みたいなものであることを知っている。だから僕は彼らの行動する背中を見て何かを学ぼうとすることをやめないし、ときには彼らに具体的に相談する。相談するときには、相手の方の精神的負担が無いように最大限に配慮する。なぜなら彼らの時間を無駄遣いさせたくないからだ。
思えば僕は、年寄に限らずあらゆる相手に対する配慮はこういうものだと信じてやってきた。相手の時間を使わせるということは、取り返しのつかない行為であるから、そこに「人生の時間をかける価値」が提供できることが必須条件だと思っているのだ。
お金は知恵と努力によっていくらでも獲得可能だし、失ったとて取り返しがつく。もっと具体的に書くならば、お金というものは得たり失ったりするような感覚で認識していては本質が見えない。お金というものの裏側には、人の思いがあるわけで、それは獲得したり喪失したりするものではなく、循環すべきものなのだ。お金の形ではなくても良い。
ところが時間というものは、人それぞれ異なる速度で、しかもそのときそのときで変化しながら経過している。そして大事なことは、お金と異なり時間は取り返すことができない。
わたしたちは皆、死に向かって生きている。死を免れることができる人間は1人もいない。
だからこそ、強い眼力をたたえた優しい顔をした年寄たちは、ブレることを知らない。日々を確実に、瞬間瞬間を勝負しながら生きているのがわかる。僕はそこに強く共感を覚えるのだ。
キューブカフェに来る年寄で、シルバー人材センターで職を得ている方はひとりもいない。これがどういう意味か、おわかりだろうか。皆さん自分で考えて自分のやりたいことを貫く「生きるチカラ」を獲得なさっている方々なのだ。年齢にかかわらず、これができる人のことを僕は「大人(おとな)」と定義している。世の中には、年が若い大人もいるし、年配の小人(こども)もいるのだ。
キューブカフェに来る年寄で、介護やデイサービスを受けている方はひとりもいない。むしろ地域活動や現役の仕事や日々の生活を通じて、いまだに「誰かに何かを与える」活動をしている方ばかりだ。
僕は彼らをリスペクトしているし、年上の方々として配慮もしているが、心の中では「友達」だと思っている。年の近い友達、年下の友達、そして年上の友達。
現代社会について思いを馳せると、僕の「友達」の定義は「家族」に近いのかもしれない。
先週のキューブカフェでは、キッチンで5人くらいで味噌おにぎりと紫蘇おにぎりを結んでいた。皆ワイワイと楽しそうにやっていた。80代とは思えないほど若々しい栗原さんのおにぎりは、言葉で言い表せないおいしさがあることを知っていた。その栗原さんが若い人たちと一緒にワイワイキャッキャしながら台所でおにぎりを結ぶ。これこそが、かつての日本の家庭で当たり前のように見られた文化の伝承であり、世代を超えた交流ではないだろうか。
そしておにぎりを結んでいなかった僕を含めた4人は、別の部屋で口角泡を飛ばす激論を交わしていた。世代を超えて、本音でぶつかりあっていた。激論がヒートアップしてきたころ、「はいはい、おにぎりできたわよ〜!」の一声。それで、みんなでおにぎりを頬張る。
これは長屋的だ。これは家族的だ。血の繋がりなど、関係ないのだ。僕たちは今、キューブカフェでとても大事なことを体験している。皆で分かち合うおにぎりは、ビニール手袋などつけずに素手で握られた。この形は誰が握ったやつだろうなんて話をしながら、皆で満面の笑顔で、おにぎりを食べた。
かつての日本。戦前の日本では、このような光景があちらこちらで当たり前のように見られたのではないだろうか。
こんなに楽しく生きていて、ボケたり寝たきりになるはずがない。
僕には昔から「理想の死に方」のイメージがある。それは、どこか見知らぬ場所。砂嵐が吹き荒れる砂漠かもしれない。峻険な山々に囲まれた乾いた草原かもしれない。そんな広大な自然のなかを僕は、ポンチョを羽織って歩いている。どこかの村からどこか別の村に向かって、目的をもって歩いている。そして、突然、ぽっくりと倒れてそのまま息を引き取るのだ。最後の最後の瞬間まで僕は、何かを成すために、昨日までと同じような今日を生きて、死んでいきたい。
誰がなんと言おうと僕には見える。このキューブカフェで起きていることは僕が心から望んできたものの現実化が始まっている証拠だ。このまま発展していくものが、望んでいた未来を成就させてくれる。
キューブカフェは世界に「拡げる」のではなく、避けようもなく自然に、ひとりでに世界に「拡がる」。
年上の方々との心の通じ合う場はもう誕生した。次のチャレンジは、僕よりもずっとずっと若い世代の方々との心の通じ合いである。そしてそれはもう始まりの兆候を見せている。
若い方々と交流するために、年寄の方々との繋がりは必須である。順番を間違うと、難しいことになるだろう。そして世の中の多くの活動が、年寄を置いてきぼりにしているから、厳しいのだ。
超高齢化社会を「乗り越える」のではなく、我々が「適応していく」のだ。わたしたちは、高齢者社会というものについて常識を疑う必要があるし、その時期が来た。
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