魂・転生・次元・時間・記憶
あるとき、ふと思った。
もしかして人間の一生が終わったら、別の人として生まれ変わるんじゃないの?
それで、疑問が生まれた。
別の人って、どこの、いつの時代の、誰?
やがて、こう思うようになった。
輪廻転生って、現在過去未来に実在する人として生まれてくるってこと?
ということは、
もしかして、現在過去未来に実在する人の人生って、ひとつの魂の生まれ変わり?
そうなると、すべて「自分」ということになる。さらに、
人間だけじゃない、すべての「いのち」がひとつの魂の生まれ変わり?
記憶が引き継がれないとしたら、それは可能じゃないか。そしてさらに、
「いのち」の定義……ガイア理論が示すように惑星や恒星も「生命」だとしたら、この世のすべてにはいのちが宿っており、それがすべてひとつの魂でつながっている(生まれ変わり)かもしれない。
さらにさらに、
わざわざ死を待たずとも、眠っている間に肉体に記憶を残して他の誰かと魂が入れ替わっているかもしれない。
するとさらに、
ひとつの魂がひとつの肉体に対応しているという思い込みは、個人主義的なバイアスのせいではないだろうか? もし、ひとつの魂が一度にそれを為せるとすれば、個というものは、ひとつの魂の異なる影という見方ができる。
そこで疑問が生まれる。
ではなぜ、わたしたちはこのような肉体の檻を通して物事を観察するようにこの世に生まれるのか?
その答えを探る。
もし魂も存在もひとつだけだったとしたら、関係性の美を知ることもできず、学ぶこともない。
上記の思考実験を展開していくと、次のような仮説が立つ。
感情・氣・関係性というものはすべて相互的なものであり、一方的なものは存在し得ない。
すると色々と紐解けてくる。
Sensitiveとは、認識の受容であり、素直さ・誠実さの反映である。鈍感であるということは、事実を見ようとしないことに他ならない。そして感度にかかわらず、相互的なエネルギーがある。
これは、ESPやHSP、そして僕が長年「謎」としてきた「嘘がわかる」とか「感情が見える」「意識せずに予知する」の説明になり得る。
記憶について
魂が入れ替わったり、他の人として生まれ変わったりするという事象は、この世界を三次元的に観察して、時の流れが一定でしかも過去から未来への一方通行であるという仮定があってこそ成り立つ「視点」だ。
前章に書いたことが真であるとすれば、個を規定するものは「記憶」と「肉体的特性」以外に何もなくなる。
ところで記憶というものは、脳の中には無いと思っている。
脳に記憶が入っているという考え方は、コンピュータに例えると「ネットワークにつながっていないコンピュータのストレージにデータが入っている」ということだ。
しかし実際には、「データ(記憶)は、クラウド上にある」と思っている。
クラウド上にはすべての生命の経験をもとに記憶が蓄積されていて、人体は脳を(あるいは他の臓器も)使ってそれらの記憶にアクセスしているだけ。
脳には、記憶のアドレスだけが記録されている。
たとえばWikipediaにはさまざまな情報がある。脳はWikipediaの情報の、ある項目が説明されたページのURLを覚えているだけ。
24人のビリー・ミリガン
ダニエル・キイスによるノンフィクション小説「24人のビリー・ミリガン」によって有名となったビリー・ミリガンは、24人の人格を内包していた。そのなかには、主人格が習ったこともないフランス語を流暢に話すなど、主人格が持たない知識・記憶をもつ人格もいた。
どうして知らないはずの知識・記憶があるのか?
それはまさに、記憶が脳内ではなくクラウド上にある証拠にはならないだろうか。ビリー・ミリガンは、自分が体験していない知識や記憶にないアドレス(URL)に、何らかの形でアクセスできてしまったのではないだろうか。
記憶はなくならない
先日、記憶はすべて引き出しに入っているという内容の投稿をしたが、実際に言いたかったことは、この投稿に書いたようなことだ。
もしすべての魂がひとつの存在の異なる投影だとすると、すべて自分なのだ。それこそが、古代日本において大陸思想の流入とともに失われてしまった「和多志」の概念なのではないだろうか。
「和多志」はいつしか「私」という、他人とは分離された個として書き換えられてしまった。
わたしたちはすべて、つながっている。
なぜこういうことを考えるのか
僕は長い間、他人の感情と自分の感情が区別できなかった。それはつまり、他人の感情と自分の感情に境界線がなかったということだ。現代社会ではその理屈は通用しないため、かなり苦労した。それを区別できるように訓練を要した。しかし今思えば、本来感情というものは自他の区別の必要がないものだったのかもしれない、という僕にとっては希望的な予測が立つ。感情が相互関係にあるということが事実として受け入れられるときがもし来るのならば、僕の「異常」「障害」は「普通」のことになるのだ。そして感情がわかるとか嘘がわかるとか言っても「オカルト」とか「きもちわるい」とか言われずに済むようになるのだ。
自分という隣人
袖すり合うも多生の縁、というが、実際その通りなのだろう。
わたしたちは、他者の立場になりきることで愛情を理解する。その究極は、他者が自分であるという仮説のもとにおいて可能となる。
道端で困っている人を見かけたら、助けますか?
助けても、助けなくても、どちらでもいいんです。ただ、
助ければ、その相手として生まれてきたときに、他人である今のあなたに、助けられる経験をする。
助けなければ、その相手として生まれてきたときに、他人である今のあなたに、助けられる経験をしない。
僕が何かを人のためにすると、奇特な人だねとか、なんの得もしないのにどうしてそんなことするのとか言われることがあるのです。
また、誰かが僕に嘘をついたり約束を破ったりしたとき、必死に謝ってきたり、逆ギレされたり、いろんな経験をしますが、僕はいまの人生でコントロールできるのはいまの自分だけだって思っているから、相手に対して怒りの感情は湧きません。でも、嘘を嘘で塗り固めたり、完全に利己的な理由でキレられたりすると、放っておけません。だって僕はいずれ、あなたとして人生の経験をするかもしれない。そのときに、僕はそんなことしたくないと思うことは、放置できない。それだけ。
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