エンパシーやテレパシーに関して言えば、それは獲得するものでなく「既に存在することを認識する」こと。
周辺にある事象や物理特性を見て「時間の流れが一方向である」誤認識することが、能力に制約を与えているのです。
ですから名前をつけるとしたらエンパシーがある状態に対してではなく、エンパシーを認識してない|覚醒してない状態に対してつけるべきで、ディスエンパシーとでも呼びましょうか。
世の中、汚いことを考えてたり汚い常識を受け入れてしまっている人は結構たくさんいます。人口の多い都心部に暮らしていると、さまざまな人に出会う機会がありますから、そのような方々と出会うことも少なからずあります。
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以下、Facebookに投稿した内容のコピー。
行きつけの喫茶店でコーヒー飲みながら無限について思いを馳せていたら、ゾーンに入った。
あっちの世界に戻った。
何度も来てる喫茶店が見知らぬ街の見知らぬ空間になった。
ジャズが流れている。
書架がある。
観葉植物がある。
ガラス越しに初秋の陽が差し込んでいる。
木の床、木のテーブル、木の椅子、木のカウンター、木の扉。
そして突然、店主の想いが流れ込んでくる。
ああ、ここは知ってる場所だけど、知らない場所だ。
僕は僕じゃない誰かで、
知らない街の知らない喫茶店で
コーヒーらしきものを口にしてる。
目の前に置いてある文庫本は何だ。
グラスの水が透明だ。
暑すぎも寒すぎもしない風が、
カウンターの向こうの開け放たれた裏口からそよぐ。
さして力も入っていない肩の力が、さらに抜ける。
そして理解した。
ああ、また何だかわからないけど、
何かから解放されたんだな。
木材に、研ぎ澄まされた鉋をかけるのに似ている。
鉋をかけた木の表面は、ずっと触っていたくなるほどに触り心地がよい。
今この瞬間僕は、見知らぬ土地の見知らぬ空間で
見知らぬ椅子に座って、見知らぬものを飲んで、
それが胸にグッとくる体験で、
こうして書かずにはいられないんだ。
体験というものが、指し示された何かや、意図された何かだけではなく、とても繊細で、奥深いものの組み合わせで成り立っている。
無限というものは数学的には理解できる。
集合。連続体。
果たしてこの世界はプランク定数で規定されていて
無限は理論上の存在でしかないのか?
多くの理論物理学者はそうだという。
多くの数学者たちは無限を理解できるようにまとめる。
アレフゼロ。絶対無限。
でもそれは、人工知能に定義を与えると頭で理解できるようになるのと同じで、結局は人間の想像力の平均的な限界の中で物差しを作ることにほかならない。すると本来のワクワクする議題は我々の理論からすり抜けて、また遠くで薄笑いを浮かべるのだ。
不思議の国のアリスの、チェシャ猫とおなじだ。
素粒子も事象の境界も情報保存も暗黒物質も同じことだ。
どうしてもアプローチが逸れる。だから不確定要素が残る。
感覚で理解できるものが感覚で理解できないと言い出す者が現れ、数式や宗教が生まれ、そこに依存や盲信が混ざり合い、文化と歴史を醸造してゆく。
その狭間で僕は、感覚で理解できる道具を使って感覚で理解できないものを説明することはできないというパラドックスを提示する。
それはこんな説明の仕方ではなく、
日常の写真だったり、
好きな音楽だったり、
たったいま僕が入り込んでしまった、パラレルワールドだったり。
この世界を僕は知っていて、そして知らない。
∞ + 1 = ∞
∴ 1 = 0
この数式からどんな展開をするのか
そこに常識という後天的な束縛があればあるほど、
シンプルな事実から目が逸れる。
同じことを違う言い方にしてみようか?
色即是空
空即是色
これでどうだろうか?
ところで僕は、昔から何度も見る夢が何種類もある。
そのうちのひとつは、マレーシアのセキュリティ企業に勤めていた頃に、同僚が同じ夢を見てた。
最近も同じ夢を違う視点で見てた人を知った。
まだ確証は取れてないけど、多分同じ夢。
それ以外の夢のひとつが、こんな感じだ。
僕は着物を着て、下駄を履いてる。
顔はわからないが、無邪気な笑顔の着物を着た女性が、僕の手を引いて駆け出す。
そこは商店街で、地面は舗装されていない。
旗や暖簾はたくさん見えるが、ネオンはない。
商店街には提灯が飾られ、屋台がたくさん出ている。
お祭りのようだ。
商店街を、電車が横切る。
路面電車のような。
1両か2両編成で、レトロなデザインをしている。
戦争が始まる前の緊張感を皆抱えているのがわかるけど、
誰もそれについて語らない。
なぜなら今日は祭りだから。
この夢が鮮明すぎて、僕は現世でこの場所はどこなのだろうかと、本当にある場所ならば行ってみたいと思ってた。
ある日、昭和30年代〜40年代の戸越銀座の白黒写真を見て、驚いた。
これは、夢に出てくるあの場所ではないか?
歩き慣れた戸越銀座を歩いてみた。
昭和30年代の景色が重なって見えてきた。
どうして僕はそんなことを知っているのだ?
時間というものが、過去から未来に一定速度かつ一方通行で進んでいるという幻想を常識にしたのは、時計かもしれない。
一旦壊れたものは元通りにならない。変化したものは不可逆である。この物理的事象と時間を関連付けてしまうと、時間の幻想は常識になってわたしたちを縛る。
しかしその束縛は明らかに後天的に獲得したものだ。
赤ちゃんや幼児には時間の理解はないはずだ。
時間が可逆的であり、かつ同時多発的であり、速度も一定ではないこと。さらに時間というものが存在しないこと。
この仮定に立つと、さまざまなことが色鮮やかに紐解けてくる。
わたしたちは現実世界を観察しながら、現実世界に観察されているし、存在していて、存在していない。
全ては遊びなのだ。
この世界で遊んでいると、孤独というものについて論議するのは無意味だとわかる。
生について思いを馳せたり、幸せについて思いを馳せたりするのであれば、同時に死について、不幸についても突き詰めなければわからない。
右も左も知って初めて中庸のベクトルが見えてくる。
コーヒーが冷めていた。
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