Proof of Concept

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僕の場合、誰もやっていない新しい行動をする理由ってランダムに攻めているわけじゃなくて、100パーセント、個人的に立てた仮説の実証のためです。

ほんとは論理的なところで議論したいんだけど、それで話ができる人ってまあほとんど皆無なんですよね。「試してみなきゃわかんないね」って合意までもっていくのが議論で、そこから本来は実証実験をすることになるのが論証的な物事の進め方だと思うのですが、そういうことがうまくいくケースって限定されているんです。

うまくいかない場合、どういう状況かというと、

  • 仮説が理解できないのに、わからないことを素直に質問できないプライドを持っている人
  • マウントの取り合いが議論だと勘違いしている人
  • 常識が固まってしまっており、自分の色眼鏡を認識できていない人
  • 好奇心レベルが致命的に低下してしまっている人
  • 人生諦めてる人

みたいな感じです。もうこりゃ老害って言葉で済ませるレベルじゃないですよ。

すべての習熟曲線は、べき乗則なんですよ。単純に相手を認めるだけでいいのに、その分野の権威みたいに振る舞ってるくせに明らかな思考停止のループにハマっちゃってる人を相手に、真面目に論点を絞った議論はできないということは、痛いほど経験しています。

だから本当は、実証可能かどうかで議論なんてしたくないんです。実証段階までもっていった対象は、つべこべ言わずに実証するしかないんですよ。でもほんと、そこで行動に移れない人が8割ですね。

そういうのは、「魂を重力に縛られた人々」ですよ。

実証可能なところまでインフォームドコンセントしてる側からすれば、論理的な瑕疵があればそれを知りたいですし、相手の知性や知能を評価しているからこそ新たな視点を求めてわざわざ時間とって説明してるのに、それを単なる押しつけのように処理されたり他人事のようにドライでコールドな対応されてしまうと、もったいないなって思います。

ただの実験をするのに、個のイデオロギーだとか倫理観とか持ち出して説教されても困るんですよ。

まあでもだいたい10歳〜20歳くらいまでのそれは、共感者がほぼゼロでした。例外はアメリカに住んでいた期間だけ。それが20代〜30代で世間の多様性に触れることになります。それでもまあ10%には全く届かなかったですね。30代くらいからもう人に説明することはほぼ諦めてひとりでやってる感じでしたが、それでも数人の共感者がいたからやってこれたという実感はあります。40代になると、僕が10代20代で考えてたことが遠すぎる未来の話ではなく時代もようやく思った通りに近づいてきて、さらに僕の中では既に何千回も言語化されていて、世間の常識(議論の前提)について学ぶ時間もあったため、ようやく30年前40年前に僕が主張してたことに共感してくれる人が増えてきた印象が強いです。それでもやっぱり10%〜20%くらいの実績ですね。でもこれが海外出身者を相手にすると、50%以上という実感です。

僕は7歳くらいの頃から、自分をありのままに見せてはいけないと学習してきました。バカのふりをしないと、他人とのコミュニケーションが成立しないのです。こっちの考えを説明するためには、相手にはある程度の理解力が求められます。おかげさまで僕はたとえ話の技量はとても高いのです。僕が教え上手になるのは当然のことです。ただしそれは、教わる側が想像できる範囲までのことです。僕は人に共感してもらえる会話をするためには、いまにも超高速でぶっ飛んでいきそうな高出力のロケットエンジンの出力を、可能な限りギリギリまで絞って、相手の速度に合わせることを強いられてきました。それがずっと苦痛でした。忍耐力を要しました。精神力も鍛えられました。

30代の頃、うつ病と診断されたときに、主治医に発達障害の可能性を指摘されて、正式な知能テストを受けました。当時の僕は薬漬けで、いつも頭がぼんやりしてて、考えがまとまりませんでした。おかげさまで思考にブレーキをかけて相手に合わせる会話をすることの意義がよく体験できましたが。それでテストの結果は、WAIS-III(偏差15)で145くらいでした。幼少時から思考にブレーキをかける癖はまだ残っていて、それが解放されるのは、独りのときだけです。なのでプライバシーがない生活をしていると僕はどんどんバカになっていくことを実感していました。

生活環境が改善して数年たった頃、また知能テストを受けました。今度はWAISで計測できる上限になりました。WAISでは160近傍になると数値の信頼性に疑問が生じ、161以上は妥当な値を測れないそうです。まあそりゃそうですよね、知能レベルに合わせて設問が変化していくモデルになっていないですから。

僕は小学校の頃から周囲に「林は頭いいからなぁ」とか「林は天才だからなぁ」という言葉を友人たちから言われ続けてきました。これは全く嬉しくないことです。彼らは「自分たちとは違う」という意味でそのような発言をします。友人たちとの間に見えない壁を感じました。排斥されているな、と感じたことも多々あります。それで僕の生きる戦略として、バカのふりをするという選択が生まれました。

高2〜高3でアメリカ留学したときに、無条件で受け入れてもらえる、高い能力は素直に評価してもらえるという経験をたくさんしました。ああ、自由って素晴らしい。僕は当時のアメリカの片田舎のおおらかさと愛情に癒やされました。

それからアメリカの大学に進学するか帰国するかという選択を迫られたときに、国語(英語)の先生や美術の先生、化学の先生など複数の先生に「アメリカで進学するつもりはないの?」と聞かれました。GPAはAA以上でしたから、進学先は選び放題。事情があり帰国することにせざるを得ませんでしたが、僕はまったく後悔していませんでした。アメリカの大学で知的好奇心を満たす生活には憧れましたが、それは僕にとって必要というよりは、「余裕のある者に許された贅沢」だと思っていました。

教えてもらえないなら、自分で学べばいいだけのことです。ただひとつ苦労してきたこと、今でも苦労していることは、議論する相手を見つけることです。日本には、それができる相手を見つける環境がなく、おそらく母数も少ないです。可能性のある人は実際埋もれてしまっており、劣悪な環境でスポイルされてしまっています。なぜなら日本の社会は秀才を尊び、天才を理解しないからです。それもまあ当時に比べたらだいぶマシになりましたけれども、現在もまだまだ、アメリカと比べると圧倒的な差がありますね。文化の問題も絡んでいるので、簡単に解決できることではないと思います。

「自分でやる」という選択は常に甘美でドラマチックです。小さな宇宙船で大宇宙に飛び出していく感覚があります。多くの人が「苦労」と呼んでいるものが僕の言葉で「問題の明確化」のことだと理解するまで、時間を要しました。僕の中にあるさまざまな言葉の定義が、世の中の多くの人が定義している「常識」とかけ離れていることを理解できるようになってきたのは、大人になってからですね。

この世には確実なことはひとつもありません。たいていの人がうまくいくようにパターン化されたりノウハウ化されたものですら、確率こそ上がれど100%にはなり得ません。確率は過去です。状況も変わるし、時代も変わります。意識できている変化するパラメータの数が多ければ多いほど、確実性に依存することが割に合わないケースが多いことを理解できます。なにが言いたいのかというと、自分がとる行動は例外なくすべて「実証実験」でしかないということです。目の前のカレーライスを食べるだけの行動もそうです。

多くの人が「無限」という言葉の定義をあまり想像していないことがわかります。無限は無限です。多世界解釈において無限には過去も未来もないということが言えます。僕がここで言う無限とは数学的な無限の話ではなく、本物の無限の話です。数学的な無限で語るとアレフ無限とか面倒な説明を順番にしていかなければなりませんから、ここで述べているのは、全方位、全次元にわたる無限のことです。

フラクタルもヒントです。この世界に秩序がある限り、相似性の螺旋があちこちに表層化するのは火を見るより明らかなことです。大脳皮質内で組み立てられる理屈に傾倒していては、この美しい法則を体験的に理解することは不可能です。

なので知性と感性のバランスは、世界を識りたければ、自由の意味を識りたければ、必須です。

補足:

知能は運動と同じで、訓練によって鍛えることができます。本文で書いたことは、何にでも好奇心を向けることで自ら「考える対象」「実験する意義」を見つけるプロセスを説明しているに過ぎません。誰が頭がいいとか悪いとかいう「生まれつきの天性」はほとんど関係ありません。環境は大いに影響があると思いますが、大学進学のエピソードにあるように、環境を言い訳にしないことで、より自分の知性や行動を試すチャンスが広がっているということを説明したかっただけです。多くの人が苦境と呼ぶ状態は、実は大きなチャンスであり、大きな成長をする選択がとれる分岐点でしかありません。苦しみというものは主観です。不安や不信が苦しみを生みます。そんなときにこそ自分の誠実さと勇気が試されます。

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