執着と自由のバランス

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最近、執着心について思うことが多い。

はじめに、執着は良いことなのか否か。僕はこれについてまだ実践がついてきていないけれども、執着心は無い方が楽であるという点は認められる。

執着心が怖いのは、本人がそれを意識することなくいつの間にか執着してしまうことだ。

生きとし生けるものはすべて、自分が一番大事である。自分という肉体的存在なくしてこの世界で物事をなすことは出来ないから。

つまり他者を愛するためにも自分という存在が必要不可欠であるという事実は、現時点では無視し得ない。

対象は何でもいいので、好きな対象を想像してみる。食べ物、人や他の生き物、遊び、仕事、なんでもよい。

「好き」に理由はない。

そして好きなものにはワクワクこそあれど、ドキドキは無いことがわかる。ドキドキは期待と不安の入り混じった感情だ。ドキドキする理由は自分の制御下にないファクターを好きの前提条件においていることの証左に他ならない。

例えば好きな人がいて、その人のことを思うとドキドキするという話をよく耳にする。僕はこれをよく理解できない。ただ、体感としてどういうものなのかについてはかなり詳細までわかる。小説や映画にも出てくる主人公のシチュエーションだし、身の回りの人の鏡になることで疑似体験もできる。(相手の思いや悩みに面した時、相手の状況を理解するために「相手に成り切る」行為のことを僕は「鏡になる」と呼ぶ)

僕は物心ついた時から鏡になる特性を持っていた。おそらくこの特性を持って生まれてきた。他の人にこれがあるのか無いのかは知らないけど二つの可能性があって、ひとつは僕と同じである可能性……生まれながらにして持っているが故に、客観的観察力や論理性や経験が十分に達するまでは、果たして自分が受け取っている感覚やそれに伴って起きる感情が、自分のものなのか相手のものなのか区別できない段階……である。僕は長い間この特性に翻弄され、本当の自分を見つけることに長い時間を要した。

もう一つの可能性は、その特性を持ち合わせていないこと。こちらの仮説が正しいとなると、僕が持つこの特性は「個性」であることになる、

ドキドキするのは執着心との関連があると僕は結論している。何か得たい成果がある時こそドキドキするものだからだ。

それこそが成果に対する執着心である。それが自分を突き動かしていることを認識できた時点で僕は「くだらない」と思って執着心を捨てる。対象を利用しようとしているだけ。とくに相手が人間や他の生き物の場合そう思う。なぜなら己の執着心で相手を思い通りにしたところで、それは洗脳に近いことをやってるだけだからだ。

世の中には様々な執着がある。

執着こそが依存心の源だ。だから注意するに越したことはない。

依存の何が悪いのか? べつに良いことでも悪いことでも無いと思う。しかし依存対象があればあるほど、自由選択の機会からかけ離れていく点が僕にとっては無視できない問題だ。

依存が増えると行動や思考に制約が生まれる。僕はこれが生理的に受け付けられない。

ギバー・テイカー・マッチャーなんていう人間の行動基準のカテゴライズがあるが、テイカーとマッチャーは自分で自由選択できない選択肢を未来予測の前提に含めている時点で、執着心と依存心があることが前提だ。

ギバーは与えることに喜びを覚える善人ではない。それはギバーになりたいワナビー(wannabe)だ。人に与えることで喜んでもらうことが目的の人は、喜んでもらえなかった時に己を知る。喜んでもらうことに執着しているのだ。そしてそんな人が「努力に対して喜びや感謝をもらえなかった時」、己の本性と向き合うことになる。己とまっすぐに向き合って見たくないものも見る勇気のある者はそこで葛藤するだろうし、そうでない者は「与える自分」という美しく見えるものに執着し、見返りがないことに対する己の汚れた感情に蓋をする。そんな行為は誠実とはかけ離れていると僕は評する。

ましてやよく知りもしない相手に対してドキドキするなんて、期待以外の何であろうか。この手の期待とは、自分に都合の良い憶測のセットである。

人間ひとりと向き合うのは並大抵のことではないのだろう。どんな人にもさまざまな背景やストーリーや特性があり、綺麗なものだけで構成されている人なんて僕は見たことがない。明るい側面も暗い側面も受け止めてその上でどう感じるのかが大事だと思う。

だからこそ魂の波動・波長は無視できない。

不協和音とは、波長の合わない二つの波が混じり合った時に生まれる波だ。

不協和音を無視した人間関係に未来はない。その先に待つのは……良くて「死」。悪ければ地獄のような経験の連続だ。

波動が高い人や、波長の合う人をどう見つけるのか。これらは目に見えない。心の目で見れば一発でわかるのだが、ゴミに埋もれていると見えなくなる。資格はあるのに何も見えていない人がそこらじゅうを歩いてる。

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