自分の中には複数の自分がいる。
直観と論理もその現れだと思うが、さらにその上(形而上)にもいる。
最近はその上にいる自分が決めたことに沿って行動決定するのがとても楽しい。
自分が理解していないと思い込んでいる事柄を理解している前提で物事を把握できるし、それは結果的に理解していると言えそうだ。それって自分以外の人たちにとっては理解できていると説明されるべきことなのかもしれないと思うと、僕にとってかつて「理解している」の定義が「他者に澱みなく説明可能である」ことが条件になっていたことに思い至る。なぜそのような条件を自ら設定してしまったのかについては心当たりがある。それは自分が発見した感動を分かち合おうとした時に、そこに至るための経緯や筋道を理解していただく必要があるためだ。筋道を説明することはそれ自体に間違いや見落としが無いかどうかを他者の目線で評価してもらえる画期的な仕組みだ。
つまり他者に説明して誤解なきよう自分の説を展開するまでに求められるものは、機会を得ることも含めて多岐にわたる。とてもしんどい作業と見ることもできる。しかしなぜそこに労力を厭わなかったかというと、発見の感動を分かち合いたいから。こうした共有から進歩への道筋を辿るために、アートやサイエンスや信仰など様々なツールがある。しかし使い古されたツールほど自らの貸したルールや固定観念によるドグマ化が避けられないため、新しい表現や新しい説明・それらをうまく説明できる公式やそのための証明が求められるのだ。
このような表現のために僕がもっぱら使ってきたのは言葉である。ところが言葉というツールを音波や文字だけに留めるのは、要求リテラシーを平易化させるためには役立つ事こそあれど、トップエッジの感覚を必要十分に伝えるには属さないやり方となる。なので文学的であるのか論理的であるのかはたまた感性的であるのか情緒的であるのかといった指標を読み手・聞き手の感覚が受け入れうる範囲内で踊らせることに終始しがちなのである。
どう足掻いても伝わらないパートについては、説明可能=理解というルールを取っ払うことにした。それだけやってるとかなり先鋭的な人と受け止められる事が多くなってしまうし、頭が悪い人だと思われる節も出てくる。これは知能ではなく知性や品性とも関わるので単純に学識だけでは計れないところがもどかしい。
しかしながら、説明可能かどうかを切り捨てて自分の理解というものについてより真摯に、かつアグレッシブに取り組みをしてみると、説明できなくてもいい個人的楽しみの世界に浸りやすくなる事がわかった。これはゾーンに入るための必須要素のひとつだ。この発見は説明可能だし、価値がある。さらに、説明責任を放棄して話すことと、たまにやらかす自動口述や自動筆記は、全く同じ構図かどうかまでは判定できないが、かなり似通った機序であることを認識できたのも大きな収穫である。
ある程度相手との共感を無視して話す方が共感がえららる機会が増えるのもなかなか面白い現象だ。これは、通じる相手と通じない相手がいるし、どこまで波長・波動を調整したら誰に通じるのかという観察の結果はそのまま魂の有り様や覚悟の有り様に繋がることを確信した。
素直で正直であることは柔軟であることと同義であるし、それ故に得られるものは実践によってのみ認識可能である。
そんなわたしが価値を感じるものは、得られる結果によって受ける刺激と大いに関係する。刺激を感じ取れなければ興味や好奇心は湧かないのだ。その刺激が俗に言うポジティブなものであるのか、あるいはネガティブなものであるのかは感受の物差しであり、個人的にはほとんど重視していない。
何よりも感動的なのは摂理の理解や会得にある。それを俗社会を通じて、なるべく実力で得ていくのが好きなのだ。
共感や愛情はその副産物である。相互作用も当然あるが。
相対的の意味について深く考察する1週間であった。知る限り、この世には絶対基準は存在しないわけで、それは数学や物理の世界だけの法ではないのだ。物事を相対的に観察するのはとても楽しいものだ。肉体という器の面白くもあり厄介でもある点は主観という幻を現実の実態だと錯覚させることによって行動の自由や不自由を実現している点であり、それは絶対的視点と言い換えてみてもよい。ここあたりが体感的に会得できるようになると、新しい世界の見方が可能になるので、ほとんど困らなくなる。
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