最近よく「時間がない」という言葉を耳にする。
――実際、時間はあるのだ。
無意味な時間は存在しない。どうして人は時間がないと思い込むのか、結論から述べてしまえば、自分を信じていないから。
Keywords
- 父の通信講座「人間性回復の経営学」
- 映画「アマデウス」
- 映画「ウエストサイド物語」
最近身の回りで起きていることから垣間見た、過去の自分の失敗が言語化できなかった苦しみ
「アマデウス」
モーツァルトは「降り注ぐ芸術の純粋表現」と「生活のための音楽」のバランスで苦しんだ。
「ウエストサイド物語」
JetsとSharksの対立は「生きること」と「イデオロギー」の無意味な混同から起きる不要な社会的対立の比喩。
「役割」と「存在」
自分が大学を中退したばかりの頃、父に「何をしたいのか」問われた。僕が「ボランティアをしたい」と言うと、普段穏やかに話す父が強い口調で言ったこと。
要約すると「自分の面倒も見られない人間が他人を助けるなんて考えるな」だ。
その言葉に衝撃を受けたことを今でも覚えている。
- 代理可能な「役割としての自分」
- 代理不可能な「存在としての自分」
いま明確に繋がって言葉になったこと。
父のプロフィールを読み返してみる。
【表の横顔】
「人間らしく生きること」をテーマに公開、非公開(企業・団体)の研修活動を実施。代理可能な「役割としての自分」と、代理不可能な「存在としての自分」との関係を根本のところで見直し、エンカウンターグループを通して1人ひとりが「人生の中で何を大切に生きていくのか」を問いかけ、また「贈られてある命」の感覚の覚醒を呼びかける。
SHM主宰。【裏の横顔】
暗くて虚弱な少年期。八方美人と意固地な孤立を表裏に持った青年期。強烈なわがままといいかげんさに自ら手を焼いた壮年期。数知れぬ挫折と失敗。生き方と人間関係の不器用さは天下一品。にもかかわらず、脳天気と無責任に救われて、おおむね楽しく生きている。そんな私に呆れながらも付き合ってくれている妻や友人に心より感謝!
僕が思っていること:
- 「役割としての自分」と「存在としての自分」をすべて同時に満たそうとすると、人は行き詰まる
- 「役割としての自分」が行うことと「存在としての自分」が行うことの間にあるギャップを埋めていく
- 「役割としての自分」は柔軟であるべきで、「存在としての自分」はブレたらまずいことになる
僕がinfo.caffeを成功させようと躍起になっていた頃、僕の生活基盤はinfo.caffeを成功させれば安定すると信じて疑わなかった。info.caffeという場を作ることで実現したかったことは僕の使命にかかわることであり、世界中で自分以外の誰にも実現できない役割を自覚しており、「存在としての自分」が「使命」として認識していた。そして理想は「役割としての自分」をうまく組み合わせることであるが、僕はそこが甘かったのである。役割としての自分が与えられることに対する世の中の需要とのマッチングがうまくできていなかった。
「役割としての自分」。「役割」とは、社会全体における自分の受け持つパートのことだ。世の中に明確に与えられる「役割としての自分」の「価値」。それはさまざまである。
当時の失敗を経て、やり方を変えざるを得なくなった。
結果、生まれたのが「合同会社Q3」なのだ。
「存在としての自分」の思いをぶつけるためにスポンサーシップを得るということは、自分にとって一番大事な「舵」を他人に握られることになる。info.caffeが失敗したのもそこが大きな原因だ。
活動するためのエコシステムを作るには、自分がその時点で「他人に認められた」価値を提供する仕組みを構築する必要があると思った。
だからITを選んだのだ。それが一番わかりやすいから。
IT以外にも自分の強みはたくさんある。しかしそれは「実績」という証明がなければ誰も耳を傾けてすらくれないものだ。これが地球上の人間のルール。
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