1年を振り返って

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この一年間で私生活に大きな変化があった。

  • にゃーちゃんを亡くした
  • 大きな別れ
  • 大きな出会い
  • 東京から川根への移住(5名)
  • 東京から川根への会社移転
  • 結婚と養子縁組
  • パートナーの妊娠

結婚

1年前の僕は、独身で、すべてのリスクの責任を自分だけに置くことができた。1年後のいま、僕には妻がいて、13歳と11歳の息子がいて、もうすぐ赤ちゃんが生まれようとしている。

妻も含め身近な人々には少し話してはいるが、僕は結婚については制度としてしか捉えていない。いままで「付き合った」相手、「結婚していた」相手についても同じで、僕は束縛されることを好まないし、人を束縛することも好まない。幼少時からの疑問がある。数ある友人や仲間たちの中から特別に共感できる相手をパートナーとして選ぶことが伴侶を得るということなのだとしたら、なぜ「別れる」「離婚」というイベントをきっかけに、一切その相手に連絡をしなくなるとか、相手を拒否・否定するような結論に至る人が後を絶たないのか。結局それは個人のエゴを守っているだけのようにしか見えないし、そこに固執している限りは理解できないことだということもわかる。

とはいえ世の中には「常識」に縛られた社会構造があり、それは避けては通れない。新型コロナウイルス感染症が流行したときに最初の1年間はマスクをつけなかったが、2年目はマスクをつけて外出した。理由は単純で、世の中の「恐怖に駆られた」連中が、根拠も調べすにメディアが流した情報を盲信した挙げ句に根拠もない「新しい常識」=「感染症対策にマスク」という短絡的なものに縋り付いたのが僕は到底我慢ならなかったわけだが、それを説明しても理解できる人は少なく、理解できても他人と違う行動をとって角が立つことを恐れる人が多く、「権威のある(ようにみえる)」情報だけを差別的に受け入れ、市井の人に過ぎない僕の話など聞く耳を持たない人が多く、さらには人の話を落ち着いて聞くことすらできない人が大多数。2年目以降はそうしたジョークみたいな「創り出された恐怖」に駆られた人たちが真剣に怖がっているのを目の当たりにして、あんまりにも哀れだから彼らの心の安寧のためにマスクくらいつけてあげようと思った次第である。

同様に、「結婚」についても世の中には長年蓄積され続けてきた「常識」「新常識」で溢れかえっている。僕はそんなくだらないことに迎合するつもりは毛頭ないが、同じ屋根の下に暮らしていて子供がいて、ともなると「結婚してないとしたら一体何なんだ?」と多くの皆さんが落ち着かない日々を過ごすことになってしまうのが目に見えているので、紙切れ一枚でそうした皆さんの不安を払拭してあげられるなら結婚しようと思ったまで。結婚しているかどうかは、僕が妻に対してどう思っているのかとか愛情の深さがどうなのか、とは全く関係のないことなのだ。

おそらく世の中の皆さんの常識のひとつに「付き合ってるなら別れてもOK」「結婚してるなら離婚は悪」みたいなものがあるのだろう。それでは、最愛の人と結婚しない選択をしたらどうなるか考えてみてほしい。いつでも簡単に別れられる関係。もしかしたら「付き合っている」という定義すらないかもしれない状態。そもそも「付き合っている」の意味を理解したことなど僕には一度もないのだが。「付き合っている」というラベル。「結婚している」というラベル。これらを取り去ったとき、ふたりの関係性に名前がないとき、一緒にいるもいないも完全に自由な状態になる。それを受け入れつつも、その瞬間瞬間の感覚で互いをベストなパートナーとして認め、一緒にいたい、人生を分かち合いたいと思う日々が続けばそれは本物であるし、そうでなければ自然に別れる形になる。互いを愛し続けるというのはこういうことだと僕は思っている。「約束」したからといって、無理が続くような関係性は本物ではない。だったらむしろ、「結婚」や「パートナー」といったラベル・レッテルの類は無いほうが、自分に正直でいやすいのではないかと思っているのだが、皆さんとこうした議論をするのが難しいのもわかっている。

ともかく僕は結婚という言葉には全く縛られていない。日本の法律では一度に1人の相手としか結婚できない。たまたま僕は独身で、結婚可能な状態だった。結婚したほうが前述したように安心する人が多く、法制度としても受けられるサポートがたくさんある(それにも期待していないばかりか、自力でなんとかする手段を封じる悪手とすら思っているが)。それで結婚しただけ。僕が妻との間に見つけた大切な絆については、霊性や輪廻を含めた壮大な話になってしまうのでここでは多くを語るまい。

子育てと生活リズムと食生活

さて、子を持つようになって個人的な生活上の最大の変化は、規則正しい生活との調和だ。僕は規則正しい生活というものについて次のように捉えている。

  • 睡眠時間・食事など、生活に係るすべての事柄は、いま自分が必要としているかどうかをリアルタイムで判断できるようになるための訓練を経て、その時々で判断できるようになるのがベスト。たとえば食事ひとつとってみても、人間の体調や空腹度などは日によって変化し続けている。自分の体調や精神状態など、内面と向き合って、そのとき必要なものが自分でわかるようになる。
  • 上記判断力が養えていない場合や、判断(意思決定)の労力をしなくても済むようにしたい人たちは、毎日決まった時間に食事をとる。それを継続していると、本来身体が必要としているかどうかよりも、生活リズム・習慣として腹が減るようになる。

これまでの独身生活から家族生活に変化して、子供たちは毎朝決まった時間に学校へ行き、決まった時間に下校してくる。決まった時間に食事。世の中ではこれが良いこととされているから、なかなか僕がここに書いているような主張は通らないのだ。

食事内容についても、今まで口にしなかったようなものが当たり前に出てくるのだが、不満を言わずに食べていたら体調がおかしくなってきた。

【今まで全く・あるいは殆ど食べなかったのに習慣的に食べるようになったもの】

  • 食パン・菓子パン
  • 白い餅
  • 白米
  • 加工肉(成形済み肉団子、ハムなど)
  • 小麦粉のレシピ
  • 揚げ物
  • 米以外を主素材にしたお菓子
  • インスタント食品(袋麺・カップラーメン・お湯を注ぐだけのスープ・

【今まで食べていたのに全く・殆ど食べなくなったもの】

  • 茹で卵
  • 酒粕
  • 生魚・焼魚
  • 塩胡椒だけで味付けしたステーキ
  • サラダ(玉葱とわかめのサラダ・オイル&ビネガーのサラダ)
  • 野菜の煮付け
  • 水で浸さない噛み応えのある玄米

【味付けの変化】

  • 薄味から濃い味になった

「豊かさ」の定義

お金を追いかけることがどれだけ薄情で無機質でくだらないことか、既に多くの人が感じている。感じているのにもかかわらず、習慣化された脳は次の瞬間にまたお金という不必要な物差しで現在や未来を考えてしまう。お金は過去であり、行動の結果であり、しかも結果の一部に過ぎないということがわからない人たち、つまり考えることを放棄して常識に縋り、脳が老化してしまった人たちが大量にいる。

ちょっとだけでも考えてみてほしい。

例えばどこかの企業の株式を購入するとき。自分のお金を増やすことを目的に投資をする多くの人たちの考えは「どの企業に投資すればより安全かつ確実にお金が増えるか?」ではないだろうか。僕は株式投資にまったく興味がないが、身の回りにはそんな人があふれている。

一方で、自分のお金を増やす目的ではなく、ある企業の素性を知った上で、その会社を応援するための投資として株式を購入する人たちがいる。

どちらのやり方をとっても当然リスクはある。しかし投資した結果の受け止め方は大きく異なる。

自分のお金を増やすために投資した人々は、お金の増減のみで一喜一憂する。増えれば自分のセンスを自慢し、減れば経営陣に対して外野から文句をつける。

企業のために投資をした人々は、投資の結果その企業がミッションを達成すれば喜びを分かち合えるし、達成できなければ、また達成できる企業を探すか、あるいはその企業にまだ見込みがあるのならば増資をするかもしれない。

お金に操られるのか、それともお金を手のひらの上で転がすか。

また、企業を支援する方法は投資だけではない。たとえばその企業が必要としている人を紹介するとか、アイデアに詰まった企業に対してアイデアを提示するとか。

ここまで投資に絡めたたとえ話をしたが、では企業で働くということについてはどうだろうか。

「給料や福利厚生がいいから」「自分がやりたいと思える仕事だから」という利己的判断基準に基づく就職なのか、それとも入社時に「自分がこの会社を成長させてやる」「会社のミッションを達成することを全力で手助けするために来た」と思うのか。入社面接で言ったことが真実になるのか、それとも綺麗事の嘘っぱちになるのか。

これも投資とまったく同じ構図である。

「他人の会社にそこまで本気になれない」って言う人がいる。だったらいますぐ自分の会社を作ればいいのに。それができないのだとしたら、今この瞬間に目の前にあることに全力を出してみたっていいんじゃない、と思う。何かと理由をつけて本気を出せない人は、それが他人事であろうが自分事であろうが、本気を出したくても出し方がわからないままだ。

豊かさというものは、その充実を知らないものには感じられないものなのかもしれない。

いまここ川根本町で僕が山々の連なりや星空や川のせせらぎを見て感じているものは、簡単に共感できそうでいて、そうではない。見える景色は同じでも、感じるものはその人の歴史によって異なる。

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