琥珀色の夢

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昨晩の夢。

円筒状の何か巨大な仕組みを造っている。

それはあまりにも巨大で、無限の空間に広がっている。

宇宙の摂理に関わる大きな摂理を理解したはずなのだが、その具体は夢から覚めると共に急速に失われ、今はもう思い出すことができない。

感覚としては、こちらの世界に戻ってくると肉体という器の制約の中でしか物事を処理できない。人間の脳には収まりきらないこと。人間の脳では処理しきれないこと。

意識とは自由とは対極にあるものだと思い知らされる。

ただひとつ、面白いなと思ったのは、記憶は残らなくても、感情は別だということ。

記憶を無くしても、その断片は意識に残る。断片が意味をなすかどうかはともかく。なにしろ摂理というものは意識下で全て把握できるようなちっぽけなものではない。意味あるものは無意識にある。意識は常に、無意識にある完成された体系(進化し続ける体系)の断片を下ろしてきて、部分的解釈を加える程度しかできない。無意識の世界に接近して、その体系の中に没頭することを人はゾーンに入るとか集中するとか言う。

同様に、その時感じた感覚の断片は意識に残る。そしてその断片には意味がある。何を経験したのかは思い出せなくても、その時感じた感情は人間としてありありと思い出せるから。

これは大きなヒントだ。様々な事象を、今回得たイメージや感情に照らし合わせて見直してみることで、多くの新たな知見が得られるに違いない。

例えば認知症や記憶障害を持つ方々にとって、感情は忘れられたものになるのだろうか。若い頃の楽しかった思い出があるとする。そこで何をしたのか具体的な記憶は取り出せなくなってしまっていても、その時感じた「楽しい」と言う感情を反芻することができるのならば、感情というものは起きた事象を理知的に読み解くという無限の試みとは対極にあり、その体験の全体像に対するスナップショットであると言い換えることができる。

記憶は消えても感情は消えない。ここには容量という概念は必要ないように見える。

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