花咲かじいさん

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確かに僕はいままで築き上げてきたマネタイズの手法を全部捨てた。
これがどういうことかというと、富を失ったわけではなく、自分が持てる富をシンプルに信じることにしたのだ。

富とお金は、同じものではない。

富とは、人類の歴史が始めるはるか昔から存在するものだ。うちの猫(にゃーちゃん)でも、富を持っている。
にゃーちゃんが持っている富は、畳のある陽当りのよい窓際でゴロゴロしたり、欲しいときにゴハンや水が得られたり、僕や同居人が帰宅したら背中や頭を撫でてくれたりすることだ。

お金は富を移動するための便宜的なツールでしかない。

カフェに向かって歩きながら、美しい青空を背景に満開の桜を眺めていて、改めて思った。
そうだこれは、花咲かじいさんの話だ。

確かに僕は、会社に勤めていた頃のようなお金はいま持っていない。
でもその代わりに、TOWNSHIP LABOの仲間、四畳半の同居人、info.caffeを通じて知り合ったり旧交が復活した多くの人たちと共に価値ある時間を生きている。

花咲かじいさんはリッチになるために花を咲かせたのではない。
心の大切なところが分かる人に、感動を与えたんだ。

僕は裏に潜む人の「欲」というものの浄化をずっと思いながら生きてきた。これって誰でも葛藤することなんじゃないかと思う。
葛藤をやめてしまったときこそ、自分の純粋性を諦めてしまったとき。

必ず、突き通す道はあるものだ。勇気は必要だけれども。

僕は性善説をこよなく愛している。他人に僕のお金を奪うことができたとしても、僕の心のなかにある富には決して手を出すことはできない。

にゃーちゃんに触れるほんの一瞬のために手をさしむける行動ひとつ。
コーヒーを淹れるときの一挙一動。
友達に伝える言葉の一字一句。
右に向かって歩くか、左に向かって歩くか。
こうした細かいひとつひとつのことに、きちんと想いを載せて生きている。

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