思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words;
Be careful of your words, for your words become your deeds;
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits;
Be careful of your habits; for your habits become your character;
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.
この有名な言葉を残したのはマザー・テレサという説があるが、いったい誰が残した言葉なのかはわからない。しかし歴史を紐解けば、似たような言葉は数多く残されている。ブッダもキリストも同じことを言っているように見える。
思考がものごとをつくりだす。現代を生きるわたしたちはなぜそれを素直に受け止められないのだろうか。
非科学的である、という人がいる。果たしてそれは本当だろうか。
思考が現実(運命)をつくりだすという考え方は、量子の観測問題として科学的にとらえることもできるのではないか。
回折する波のような性質をもった量子とはいったいどういうものなのか。
観測したときだけ粒子の性質をもつとかどういうことなのか。
観測とはいったい何なのか。
意識とは?
こうした問題に科学的にアプローチしても、いずれ同じ答えにたどり着く。
思考がこの世の中をつくっていて、さらにそこには、潜在意識が大きく関連しているということだ。
形而上学的世界をすべて否定したらそこには何も救いがない。
観測するには、観測する主体としての意識が必要である。
意識が存在するから、観測がおきる。
観測があるから、物質が規定される。
それは言い方を換えれば、脳というメカニズムによってつくられた矛盾のないルールのうえに世界をマッピングさせる作業で、唯物論的な「既にそこにある」ものを見つけていくという考え方とはずいぶんかけ離れている。
天動説を信じている人が、地動説を知ったときの感覚が近いのだろう。
意識というものは、単独では存在し得ない。反射は必須である。
光影とおなじだ。
そう考えていくと、やはり物事というものは、思考からつくりだされるものというほうがしっくりくる。
実際そう信じてみると、そのとおりであることが実感できる。ただし、脳の「思い癖」というものはなかなか厄介で、錯覚と同じようなもので、なかなか思考というか、捉え方を変えていくことは難しい。一筋縄ではいかない。それでも訓練と思考を積み重ね、ときに瞑想してインスピレーションを得ていけば、体感的に腑に落ちる瞬間があるのだ。
論理というものがいかに不安定で、無限の道筋を持ち得るものであるのか。
我々はその前提をしばしば忘れて論理で話をつけようとする。
1930年代にゲーデルが、論理の不完全性を証明してしまったのにもかかわらず、人は悪あがきをしている。
わたしは思う。
思考がこの世の中の現象に対して少なからぬ波状効果をもたらすのであれば、その思考は、他人にバレていない奥深い部分も注意深くなければ意味がない。結局のところ、人の誠実さや公正さは、神に隠しようがないのだ。なぜなら思考を創造し、世の中という影に落とし込むのは自らの内なる炎であるから、偽りようがない。
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