般若心経に「色即是空 空即是色」とあるが、空(くう)とはいったい何か。
過去の経験とのつながりから空を初めて意識することができたのは小学5年生の頃、クラスの毎朝の課題でやっていた非利き手で描くクロッキーのときだ。体操着姿のクラスメートの服の皺を紙の上に表現しながら感じたのが最初のことだったと思う。
具体的な目的のないものを創造しろという課題ほど無理難題もない。たとえば「積み木でお城をつくりなさい」と言われたら、その城がどのような人物によって何の目的でどんな時代にどのような規模で建造されるのが目的なのか、あふれる疑問でいっぱいになった。「とにかくお城を作ればいいの。簡単でしょ?」と言われるのが不思議で仕方がなかった。そんなの簡単なわけがない。
他人から出される課題はこのようにして意図を知るためにいくつかの会話が必要であるから、出題者に対して質問攻めになってしまう。だから学校のテストは嫌いだった。出題者の意図が問題文から見えない問題については、出題者はこう答えてほしいのだろうなという意図予測はできるが、ついついその意図を裏切る回答をしてしまうのだった。それは出題した大人に対して、問題文が不完全であることを指摘するものだった。幸いなことに小学校高学年以降の担任の先生はそのような僕のいたずら心を理解してくれて、思考の穴を突くことを褒めてくれた。それで僕は小学校5年生から6年生の学校生活はとても充実していた。
クロッキーは目の覚めるような体験だった。何も理屈がない、ただ目の前にあるものを感じて、それを自由に描写してよいという、最高の自由時間だった。白い画用紙が無限の広さをもったキャンバスに見えた。課題も解決策も自己完結できる作業は昔から大好きだった。
ものの見え方というものは思考によって大きく歪む。歪まない状態に近づけるためには心の中を無の状態にしなければならない。見えるものをそのままなぞる。さまざまな物理法則が自分の身体や道具に関わり、結果として現れる線のひとつひとつが、息を呑むようなドラマを画用紙の上で踊り回る。これこそが空であり、その瞬間を捉えた内的イメージが表現できることの素晴らしさったら、涙ものである。たかが体操着、されど体操着。皺の寄り方でも好き嫌いがある。好きな皺はなぜそれが好きなのか自己分析しながら、できるだけその「好き」が絵を見た人にも伝わるように表現していく。そして脳がそのような働きをすることに自分で驚き感動する。
世の中には、わからないことがたくさんあるから、それをわかろうとする行為そのものが楽しい。それが尽きることがないから、この世界の広さと奥深さには常に敬服するばかりなのだった。
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