Childhood’s End

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1/8-9、とても興味深い明晰夢。

象徴的な状況と、何かを示唆するような内容。夢の中の自分が現実世界の自分の身体を動かしたこと。どっちが夢なのだろう。

大人はなにか。子供とはなにか。僕が子供時代から汚い大人を信用してなかったことを思い出す内容。じゃあ肉体的にはとっくに大人になっているいま、大人ってなんなんだろうという話。子供心を忘れていないこと。子供にはきちんと筋がある。イデオロギーもある。正義もある。それを潰すのは「大人になってしまった人間」だと思った。僕は年下の連中を守るために大人に拳をあげて全力で殴りかかった。その瞬間、現実世界のベッドで眠っていた自分の身体でも同じことが起きたのだった。

だったらこの世界でも強い念がこもった行動は多元宇宙のすべての自分に影響しているんじゃないか、と思った。

世に言う「大人」や「成人」っていうのは、本当に大人なのだろうか。自分ですべてを考えて納得して生きることを諦めて、人の言うことを少しでも納得していないのに従ってしまった時点で「オトナ」になってしまうのではないか。そうすると、オトナは全然大人じゃなくて、自分のことですら自分で決められずに誰かに委ねてしまう非自立的な存在で、それこそ将来困っちゃうんじゃないか。自分ごとを自分ですべて納得いくように決めて、やりたくない行動はどんなに矯正されようと強制されようとNOと拒みながら生きるのは、かなりしんどい。でもそれをやってる人を見つけると「仲間だ」って思っちゃう。自分のアタマで考えようなんて言ってる人はたくさんいるけど、そのうち多くは自分で究極まで考えるっていうのがどういうことなのか、忘れちゃったのか、単に知らないだけなのか、できていないようにしか見えない人が多い。

僕はこの「オトナにならなかった」ご褒美をいまの生活で強く感じている。それはお金とか権威とか権力とかとは比較にならないくらい価値があるものだ。

僕らのようなタイプの人からみたら、「オトナ」のほうが幼い子供にみえるのだ。自立できてない、おしめのとれていない肉体的に年を重ねた未成熟なひとたちが、頑固さと自意識だけいっちょまえに育っちゃって、エゴまるだしの言動をしてる。

実にくだらないから正直にそう言うと、顔を真赤にして怒り出すから意味がわからない。

Childhood's Endは、アーサー・C・クラークによるSF小説の金字塔だ。邦題は「幼年期の終り」。この物語がどれほど壮大であるのかは、読んだ人だけが理解できる特権。カール・セーガンの「コンタクト」も素晴らしい。共通点があるんだよなあ。

わたしたち地球人は次の段階をそろそろ迎えつつあると思うよ。

権利とか差別とかそういう言葉にフォーカス当ててくだらないことやってないで、どんどん外の世界から吸収しつづけたほうが楽しいね。

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