行き先

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先ほど目が覚めて、体中の力が抜けて動けなかった。

金縛りみたいな緊張からくるものではなく、その逆で、弛緩しきっているような感覚だった。

なにかエネルギーのようなものが枯渇しているような感じ。

自分のコーヒーカップにコーヒーを注がなかったわじゃない。

自分のコーヒーカップの中身を掠め取られたわけでもない。

なんだったら自分のコーヒーカップには、たくさんコーヒーを注いでいる人たちがいるのを感じる。

けれど、自分のコーヒーカップに、コーヒーは溜まっていかない。

なんだろうこれ。

不思議。

はじめての感覚。

そう想いながらも、その不思議さを伝えるために口を開くこともできないくらい、

身体に力がはいらない。

もう少し詳しく書くと、

身体に力を入れようと思えば入るんだろうなって、わかるんだけど

力を入れようと思う方法がわからない、みたいな

とにかく不思議な状態だ。

これって、アレに似てない?

そう、にゃーちゃんが動けなくなったとき。

にゃーちゃんは、動けなくなってることについて

悲しみも動揺もなく、人間のように話せるとしたらきっと

「なんか、力が入らなくて、動けないにゃー」

って言ってたかもしれない。

にゃーちゃんが愛されていなかったわけでもなく

栄養不足だったわけでもない

けれどもにゃーちゃんは、

人間の預かり知らぬ何かによって

その肉体はどのような行為をもってしても衰弱を免れ得ず

どんどんとやせ細っていき

目は見えなくなっていき

身体はやせ細っていった

獣医にも原因はわからなかった

それと共に体調を崩していった僕は、

まるで映画「E.T.」でシンクロしてしまったETとエリオット少年のようだった。

過去記事「波長の同期」

そして先ほどの、ちからの抜けた状態は

まるで当時のにゃーちゃんみたいだな、って思った

そしてそのうち、

勝手に涙が出てきて、嗚咽しながら泣いた。

鼻水もたくさん出た。

でも泣いている理由がまったくわからなかった。

感動しているのか、悲しいのかもわからない。

それからしばらくして、

今おきていることを説明したくなった。

部屋にはまみさんがいたから、話したかったんだけど

身体が自分のものじゃないみたい、ではなく

運動神経に信号を送れば動くのはわかってるんだけど、

運動神経に信号を送るための何かエネルギーのようなものが足りなくて

ただただ脱力してて

それを自覚できていて

ああ、説明することができないって、思った。

そのとき思ったのだが、

このまま何も喋れなくて、

身体でボディランゲージもできなくて、

ただ人形の中に意識があるだけみたいな状況になったら

僕が意思疎通できているかどうか外部から確認はできなくなるなって。


なんか脳障害で寝たきりの人もじつは

五感も脳も働いていて、ベッド脇で話していることが聞こえてて

手を握られたりしてることも認識できているけど、

それを伝える方法がなくなってしまっていて

植物人間ってただ呼吸しているだけだって思われているケースがあるって。

僕はそれを疑似体験した。


それからやがて理解のようなものが進み

僕はまったく動かず、呼吸だけしているような状態のまま、

死を悟った。

このまま動けなくても、まわりの声はきこえているし、

感情もある。思考もできている。

やがて僕の生命エネルギーがどんどん弱くなっていけば、

心臓も止まり、体温も下がるだろう。

そうすれば、免疫システムによって免れていた身体の腐敗もはじまる。

それでもなお、死んだとはいえないかもしれない

そこに感覚と意識があるかぎり。

外部からみたら、それは確認のしようがない。

解剖学者の養老孟司先生が言ってたことを思い出した。

一体なにをもって「死」とするかは、よくわかっていないと。

死の定義など存在しない。

わたしがもしここで外部とのコミュニケーション手段を失っても

感覚がのこっていたとしたら

それは宇宙の粒としてそこに残り

死と断定されて

移動され

焼かれ

忘れ去られる。

これがもしかしたら

「念」というもので

念が残るから「残念」

それが

「無念」になり、消えていく

消されていく

情報が活用される無駄になっていくことなのかと。


一方で、

愛ある状態において、

そのような朽ちる形の死はないのかもしれない。

きちんと「上昇」して

帰るべきところに帰る。

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