この世の果てと幸せの水平線

水谷先生の著書には「哀しみ」という言葉がよく出てくる。
この日本で、いま一番哀しい部分に対峙しているからだ。

世の中は享楽の追求に走り続け、裕福さが幸せの象徴に位置づけられてから久しい。
少なくとも僕が物心付いた時には既にそんな世界になっていた。

哀しみの理由は人それぞれだが、原因を辿れば、それは意外にというかやっぱりというか、単純なものだ。私やあなたが作っている世の中に問題があって、その世の中を浄化するシステムが機能していないからだ。
子供は不完全なままに年齢だけ重ね、大人として扱われ、子を産み、育てる。
子育てには、ライセンスもルールもない。
自分がどう育てられてきたか、自分がどんな経験を積んで何を感じてきたか。
それが全てである。
そして子供は、大人の準備ができていなくても生まれてくることが往々にしてあるのだ。

昔、母が僕を呼び、当時別居していた父親のメモを見つけ、読んでしまったと言った。
そこには「自分は親として失格だ。親としての責任もとれる自信がないのになぜ子供をつくったんだろう」と書いてあったらしい。
そんなこと書いておきながら、その後、別の女性と、2人も子供をつくった。

恐ろしいことに、子供の頃の自分はこんな父親を以前は教育者として尊敬し、すべて正しいと信じて疑わなかった。だから何を言われても受け入れるしかなかった。
こんな無責任なことが許されるのだろうか。
これより遥かにひどいことが、どこかで毎日起きている。

子供はとても敏感だ。育てていくには、細心の注意と、ときには大胆な決断が要求されると思う。
子供の前で迂闊なことは言えない。子供は大人の会話をよく聞いている。
大人は、どうせ子供には分からないだろうとたかをくくって、子供の前で平気な顔をして恐ろしい話をする。
そういう場面にたまたま自分がいると、いてもたってもいられなくなる。

哀しいときには、海を見にいこう。
東京湾じゃなくて、九十九里の荒波を。
太平洋の波と水平線と空と砂浜を見ていると、何かが自分を鎮めてくれる。
誰かが哀しいときには、ここへ連れてきたい、と思う。