とても載せたい歌詞があるが、JASRACでブログに歌詞掲載する際にかかる料金について調べてみたところ、とても払う気になる金額じゃないのでやめた。
近況記録:
ここまで対策失敗するとは思わなかった。正直かなりショックを受けた。数週間前の自信はいとも簡単に跡形もなく崩れ去った。元気でいようと務めているが真っ黒な空洞がある。いつも通りに、日が暮れると比較的調子がよくなる。話をするのがつらい。考えるのがつらい。雨は良くない。運動すれば多少よくなる気がするが運動する元気がない。悪化する方向がだいたいわかる。なので、あまり悪化するようなことは考えない。考えなきゃいけないという衝動を放置している。自己防衛本能?とにかく、いつものことながら誰とも触れ合いたくない。孤独でいたい。ちょっとしたことが気になってイライラする。机とかパソコンとかマウスパッドとかリモコンとか置いてある角度が曲がっているのが気になって、すべて直角に並べようとするのは強迫観念に近いかもしれない。不浄である。労りがない。何も考えずに送信ボタンを押すことにする。犬と人間について考えた。心が通じ合うってどういうことだろう。通じ合うと何があるのか。生きるということは他者の痛みを知るための試練か。自分のことばかり考えているのがつらい。人の役に立っていないと生きる価値がないと思う。つまり今の自分には生きる価値がない。コミュニケーションとは何か。コミュニケーションが得意ですとか言うのは何か。いつも明るく接して人見知りせず誰とでも仲良くなれる自分はたぶんきっと色々無理をしているんだろう。いまの状態はまったく反対で、すべての関わり合いを遮断して終わりにしてしまいたい。これならまだ普段から無愛想だけど長く付き合いができる人のほうがマシだと思った。そういえば前もそうだったけど無性に海の音が聴きたい。夜の海辺で目を瞑って耳を澄ませば聴こえてくるあの遠く重い波のうねりを聴くとなぜか心が落ち着き、やがて高揚する。涙が出る。夜の海は怖いが魅力的。胸がドキドキして内臓の奥のほうがムズムズする、落ち着かない感じ。しかし惹かれる。頭の周辺が静電気を帯びたように(足が痺れたときのような)ビリビリした感じがして、それがじわっと頭頂部に向けて移動していく。ビリビリの円環が上に上に移動して頭頂部に集まり、消える。ゾワっとする。これが繰り返される。以前はこれが無かった。今回これが気になったのが、体調が悪くなり始めてもまだ普通の生活を頑張っていたとき、ランニングをしていたらこの感覚がきて驚いた。ビリビリが輪になって、上に移動して、頭頂部で消える。これが、走ってる間何度も繰り返される。これが来る度に体温が急激に下がったような感覚になり、走ってて汗もかいて暑いはずなのに、一気に体が冷える。寒くなる。そのまま走っていると、また同じのがやってくる。また体が冷える。何度か繰り返しているうちに、体が重くて走るのが非常に辛くなる。脚もまだまだ元気だし息も上がっていないのに、走れなくなる。重い。体重が倍になったようだ。一緒に走っている仲間がいたので心配させたくなかったしそのまま走りきったが異常自体に体が戸惑っていた。その数日後、通院を決めた。いまもビリビリが頭の周囲で発生して、頭頂部に向かって移動している。繰り返している。これが来るたびに、頭の中は何故か整理されたような感じがするが、気分はどんどん重くなる。体も重くなる。このことについてまだ担当医に話をしていないので、次回相談してみようと思う。立花隆が出ていた人体サイボーグ化の番組の動画を観た。脳の中心部に近い位置にある小さな部分に電気を流すことでパーキンソン病が治るという話。これをうつ病患者に応用する実験が始まっているという。脳の悲しみを司る部分に電気を通すらしい。実際に11人で試験して8人に効果があったという。しかし感情をコントロールするというのは、どういうことなんだろうか。心も科学の力で操ることができるのか。うつ状態になった原因を無視して悲しみや落ち込みの感情だけ取り除いてしまってよいものなのか。でも今飲んでいる薬だって同じことをしている。そう、繰り返すのだ。薬をやめれば繰り返す。電気を止めれば元に戻る。パーキンソン病の患者でその手術を受けた人が動画で紹介されていた。胸に埋め込まれた電源を切ると、パーキンソン病特有の震えが再開する。電源を入れると止まる。しかし生きるために経済活動が必須であることを考えると、感情をコントロールすることの是非など語っている余裕などない。薬を拒否すれば暗闇の世界が待っているだけだ。私はなんの障害もなく生まれ、メモ耳も鼻も口も両手両足も問題なく使える人間なのに、当たり前にできるはずのことができなくて苦しんでいる。私が今までに経験してきたことはつらいこともたくさんあったが、それがあったからこそ得られた今の仕事であり、今の人間環境であり、今の生活環境であるのにもかかわらず、それをできない自分が自分の中のわけのわからない部分であるという事実に憤りと絶望を禁じ得ない。その絶望の深さのあまり死んでしまいたくなる。しかしこれはうつ病特有の死のプロセスとは少し違う。それは今のところ無い。前回は危なかったが、今回はそこまでいく前に食い止められる。絶対に。そしてどうしようもなく失ってしまった色々なものをまた時間をかけて回復していく日々が始まるのだ。私はこうして前に進んだり後ろに下がったりしている。前に進む力は人一倍あると思うが、後ろに下がることがあるので、平均すると凡庸な結果になってしまう。逆に考えると、後ろに下がることがあることがコンプレックスとなり普段から前に進むことに必要以上に固執しているのかもしれない。しかしそれは悪いことではない。コンプレックスはすべての原動力である。コンプレックスがなければ人は伸びることができない。バネは縮めなければ伸びない。この文章は敢えて改行を入れずに書いているが、私がどうかしてしまったというわけではない。あまり多くの人に読んで欲しい内容ではないのでわざと読み難くしているのだ。記録することは癒しの行為になる。誰にでもない自分に語りかけているのだ。それを私が仮想的に設定したどこかの誰かに読んでもらえていると仮定することで私は癒される。またビリビリが始まった。もしかして癲癇に近いものなのかと一瞬疑念がわく。デジャヴは癲癇と似ているという話を聞いたことがある。私はデジャヴが多いほうかもしれない。黒猫は出てこないけれど。街を歩いていると既視感に襲われることがよくある。しかしその既視感はこの現実世界で見たような気がするのではなくて、私の夢にいつも出てくる街とこの現実の街がつながっているポイントに近づいたような気持ちになるのだ。切れかかった電球、あるいは点いたり消えたりするオーディオのレベルメーターの点のように私の一部が点いたり消えたりする。それはあるときは記憶だったり、別のあるときは感情だったり、意欲だったりする。何かが失われてしまうと私はそれを必死に取り戻そうとするが決して帰ってこない。そしてやがて失ってしまった事実すら失われてしまう。それがあるときふとした弾みで、失ってしまったという事実を思い出すことがある。決して失われたもの自体が戻ってくるわけではなく、失ってしまったということを忘れていたのを思い出すだけ。きっかけは音楽だったり景色だったり匂いだったり景色だったり色々だ。そしていつも、失ってしまったということを忘れていたということにショックを受ける。そして失われてしまったものと失われてしまってから経過した時間を思い、泣きたくなる。私には失うと同時に得たものがある。あるはず。しかしそれが本当に欲しかったものだったことはあまりない。生きていく上で役に立つものなのかもしれないが、私が私らしくあるためには全く必要のないものだらけだ。私はこうして嘘の私で塗り固められていった。本当の私はたくさん失われ、新しい私がたくさん身についた。人に褒められ、おだてられ、けなされ、馬鹿にされ、いろんな形でいろいろ影響があって、手に入れてきたものだ。私は、手に入れたものが自分が欲しかったものだと思い込もうと自分自身を洗脳している。本当は欲しくもなんともないものを。こうして得たものにより、私はさらに失われて行く。単子には窓がない。私は私と毎日を共に過ごしている犬とすら永遠に解り合うことがない。犬たちはどう見ても私に100パーセントの信頼を置いているがそれ以上でも以下でもない。ここにこうして記述していることでこれを仮に読んでいる奇特などこかの誰かと私の心が邂逅することはない。私はいま真っ黒い闇を目の前にしている。どう立ち向かえばいいのか分からない。勝てる気がしない。逃げるが勝ち。その闇の周囲には事象の地平線がある。そこを越えたら戻れない。その前になんとかする。いま私はそのために全力なのだ。だから人と触れ合いたくない。余計な影響を与えられたくない。与えられないということは分かっているのだけど、余計なことにエネルギーを使う余裕がない。すべてを直角に並べることと、癒しによってエネルギーを少しでも回復することにしか興味がない。
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