理由

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なぜ、そうまでしてやるのかって、答えを書いておきます。

それは、今までの人生でもらったもののうち、一番幸せだったもの。
そして唯一と思えるほど、とびきり素晴らしいと感じたもの。
それを人にあげるのが一番だって思ったから。

それは、お金やモノじゃなかった。

この世の中で、いろんなことをしてみて、気がついた。
この世の中で、なんの屈託もなく、純粋に喜べる唯一のプレゼントは、愛しない。

ラッキーなことに、愛は、お金やモノを持ってなくても、いくらでもあげることができる。
すべてを超越して、すべてを許容して、自我のすべての闇を燃やし尽くしてしまうほどの、輝く太陽のような、大きな愛を与えられる人になりたいって、ずっとずっと昔から思ってた。


欲しいのは愛じゃなくてお金だって言われたら、がんばってお金をあげようって気持ちになった。
ほんとはお金なんてあげても、何もいい結果にはつながらないって知ってたよ。
でも、それって経験して自分で納得しないと、どうしようもないことだっていうことも知ってたから。
否定もしたくなかったし。
自分も通ってきた道だったわけだし。

自分がもらって一番うれしいものをあげるのが、一番の近道なんだって知ったときから、
もう、相手が欲しいと言っているからといって、それをそのままあげるのはやめようって決めたんだ。
もっときちんと、相手の言葉で伝えてくることじゃなくて、その裏にある心が訴えていることを聞くことにしたんだ。
そしたら気がついた。
お金が欲しいって、口ではそう言ってるんだけど、その奥にある心は、愛が欲しいって言ってる。
でも、お金が欲しいって口にした瞬間から、言った本人が、その言霊に支配されてしまう。
自己洗脳っていう言い方のほうがわかりやすいかな。

すっごく反省したよ。
欲しいって言われているものをそのまま与えても、いいことない。そんな結果もあるんだなって。


欲しいのは愛じゃなくてあなたの行動だって言われたら、がんばって行動して満足してあげようって気持ちになった。
ほんとは相手の思い通りに行動なんてしても、誰も幸せになんてならないって知ってたよ。
でも、そうしてくれないとわたしはあなたを嫌いになる!とか、
やらないと苦しむことになるぞ!とか、
なんだかとっても厳しいことをたくさん言われてしまうから。
ああ、言っても伝わらないんだなって思って。
追い詰められて、仕方なく行動したことも、数え切れないくらいたくさんあった。
でも本当にやりたいことじゃないもんだから、続かないんだよね。
そうするとね、また、怒られるんだ。
やるって決めたのにどうして続かないんだ!ってね。
やるって決めてないならどうしてやるなんて言ったんだ!ってね。
いろんな攻撃のしかたがあるんだなぁって感心しつつも、当事者である自分はとても苦しかった。
本当に自分の味方が誰もいなかったときが長くて、
悪いのは本当に自分なのかもしれないって、悩むこともたくさんあったよ。
でもね、やっぱり、行動は他人に決めてもらったらいけない。
他人の意見は聞くなと言っているのではないよ。
そのひとが、そのひとの経験から何かを伝えようとしてくれているのか、それとも何か行動を強制しようとしているだけなのかを、きちんと見極めよう。
強制しようとしてくる人は、何かをただ伝えようとしてくるだけの「善意の人」を装っているから、本当の善意の人って見分けることができるようになるには、ちょっとコツをつかむ必要があるよ。
本気で伝えようとしてくれている人は、逆に「何かを強制しようとしてくる人」に見えてしまうこともある。

ともかく、行動によって相手を満足させることにも、いい結果は何もないって学んだ。
だからやっぱり、言われたことをそのままやっても、いいことない。

そしてだんだん、人にはさまざまなステージがあるんだなってことがわかってきた。
でも共通して言えることは、自分もまた、愛すべき対象のひとつだってこと。

お金なんてほしくないのに、お金を誰かに(もしくは自分に)与えるために頑張ってる自分がいたら、
それって何よりもまず、自分という人間が、そのあなたの体が、かわいそうだよね。
本当は、心の底では、やりたくないことを、強制しちゃってるんだからね。
「でも仕方ない」とかいいながらね。

だからまず、人を愛すためには、自分を適切に愛してあげることが大事です。
そして次のステップは、自分「だけ」を愛するようになってしまったら、また苦しむことになるということです。

自分が苦しいと思うことは、相手も同じなはず。
だから、自分が起こした行動とか、発した言葉とか、自分以外に影響する言動には氣をつけたほうがいい。
氣をつけるというのは、しっかりと、芯をもって、自分のことも相手のことも愛という名のもとに筋の通った言動をしましょうということです。

「少しくらい仕方ない」という気持ちのことを、妥協といいます。
この完璧な世界において、妥協なんて本当は、必要がないことを僕はよく知っています。
妥協してしまうのは、何かが足りないということです。
もっと深く考えて、もっとよく物事を観察して、
それでもダメなら、妥協しないで、タイミングがくることを信じて、待つ。
妥協して、100%確信できないことを言動(言動は「言葉」と「行動」)に移してしまうと、必ず後悔することになります。

妥協ってほんと、罪だよね〜って思います。

ああ、なんてめんどくさいんだろうって思った?

どうして、めんどくさいって思うのかというとね。
やる前からやってるところを想像しているからだと思うよ。

ひとつひとつ、目の前にあること。
そう。わかるよね。いま自分の目の前にある、その課題です。
そうした、目の前の課題をどうしようかな、っていうときに、しっかりと妥協せずに、自分も相手も幸せになるにはどうしたらいいかということを考えて、全方位が愛にあふれる決断をしたらいい。
大きな決断ができなければ、小さな決断からすればいい。
ときには不思議なことに、小さな決断にこだわるよりも、勇気を持って大きな愛ある決断をしてしまったほうが、解決することもある。

刹那的になったり、悲劇のヒーローやヒロインになる必要はない。
ただひたすらに、誠実さを大事に生きる。そして愛の適用先は Everything だと思えばいい。

こうしたことができることを、 Integrity といいます。

Integrity のある人は、すべてが調和している。
それは、神様みたいなすごい人のことではなくて。
あなたも、Integrity を手に入れることができる。

愛ある決断を。

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