読書について

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小説は、普段の生活では得られないシチュエーションや人間模様などを通じて、登場人物たちの感情のありかたや心の模様を疑似体験できるところが好きだ。

好きだ、といいながら、最近ほとんど小説を読めてない。
小説を読むための心の準備ができてないというか、興味がわかなかったというか、小説から得られるものを忘れてしまいそうになってたような。

小説の選び方は基本的に映画と同じで、自分が興味のあるものを読めばいいと思う。タイトルが気になる、とか、あらすじが気になる、とかでもいいし、もし読んでみて気に入った作品があったなら、同じ著者が書いた別の作品を読んでみるのも楽しい。

読む本が偏ってしまうことについてはあまり気にしすぎる必要はないけれど、小説の世界はとても広い。
せっかく広がる未知の世界を知らずに、特定のジャンルにとどまってしまうのは、もったいないなあとは思う。
小説の世界でも、好奇心は大事だ。

とはいえ、たとえば僕はSF小説が大好きだけど、他の誰かさんはもしかしたら探偵小説が好きかもしれない。
それはそれでいいと思う。どんなジャンルであれ、いいものに触れることで、究極に得られる普遍的な学びのゴールには、共通性がある。
だから、好きなジャンルを読めばいいし、「これ絶対にいいから絶対読んで!」なんて言われたものを我慢して読み続ける必要はない。
好きというものには、個人の自由がある。

自己啓発書や教科書は、無数にあるさまざまな視点のうち限られた著者の視点を紹介するものだけれど、小説は、現実に近いドラマのなかで、それをどう受け止めるかを読者に委ねることで、読者の自由の世界を広げてくれる。

人におすすめの実用書を聞かれたら、僕は「なにを知りたいのか」というピンポイントな望みを聞くことにしている。
一方、おすすめの小説を聞かれたとき、僕はその人の状況を考える必要がないと思う。良い作品は、誰にとっても良い作品である。なぜなら、フィクションでもノンフィクションでも、小説というものは知識という枠を越えた普遍的なものに触れることができる道具だから。

若い人たちだけではなく、多くの人にとって小説は宝の山だと思う。
映画やアニメもいいけれど、名作と呼ばれる小説に触れていることは、あたらしい自分の発見につながり、他者の気持ちをより深く理解するためのきっかけを与えてくれて、感性を育てる。

啓発書は人を洗脳する危険な道具になりうるけれど、名作と呼ばれる小説にはそれがない。美しい世界だと思う。

世の中には、読者をある「著者のイデオロギー」に誘導しようとする小説も、ある。洗脳小説と呼ぶべきか、それともプロパガンダ小説とでも言うべきか。
本物の小説の良さに触れたことがある人ならば、そんなイデオロギーを押し付けてくる小説はとても読めたものではないと感じるだろう。つまり、「面白くない」。
本物の名作には、愛があふれている。その愛というものの表現には、さまざまなカタチがあるということに深く感じいるのだ。

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