無時間

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現在、未来、過去というもののカタチは、時間という制約に囚われていない。

時間はヒトが便宜上作り出した幻想で、

『1秒』は、秒は、温度0K(絶対零度)の元で静止した状態にあるセシウム133の原子の基底状態の二つの超微細構造準位の間の遷移に対応する放射の周期の9,192,631,770倍の継続時間である。

つまり、セシウム原子の出す電磁波の波1回分の時間の91億9263万1770倍の時間が、1秒だと定義されているだけのことだ。

便宜の元で作り出された『時間』というものを基準に宇宙の法則を紐解いていくと、相対性理論で説明されているように、状況によって時間の進み方が違うという摩訶不思議にも見える観察結果を生むのだ。

本来、時間というものは存在しない形でも説明がつく。物事の変化というものは時で計測されうるものではなく、それはあくまで客観であり、限りなく正確に近似した不正確だ。

現在、未来、過去という考え方はとても古典的であり、ノスタルジックでもある。

実際には、現在しかここにはない。そして未来や過去は、1つの姿ではなく、無限の可能性を秘めたまま、現在この瞬間と同時多発的に存在している。

ヒトの希望とは何なのか。

未来に変化を与える現在という瞬間、あなたやわたしは何かを考える。何かを感じる。何かを受け取る。その全ての結果、確信したものが目の前に現在として現れている。

それだけでは全てを説明している状態には程遠い。

選択した未来、選択した過去。

これらが全ての調和をもって、人智を超えた宇宙の法則という美しきシステムの中で、互いに影響しあって辻褄を合わせている。

未来を夢見るということは即、現在に変化を与えることであり、同時に未来を選択することでもある。そして過去も書き換わるのだ。書き換わるとは、収束したuniverseの選択に過ぎない。

多くの人は、自分の人生を取り巻く全てが自分によってもたらされていることを信じられない。それは、想像力の欠如あるいは認識ミスによって宇宙が1つしかないという概念に囚われているからだ。同時にそれは、人智を超えた調和という壮大なシステムに対する想像力の欠如でもある。

世の中には常に、想像を超えたものがある。

そしてすべての意識は、そのplaygroundの中で自由に創造したり経験したりする自由を与えられている。

これを昔の人は、神と呼んだ。私たちがその神を否定する必要は何もないし、抵抗感があるのならば呼び方を変えてもいいのかもしれない。

大きな叡智の元で回っている我々の宇宙を知れば知るほど、自然の・宇宙の法則の美しさに息を飲む。

それを構成したのは、誰でしょうか?

僕は答えを知っています。

答えを知らないあなたも、内観すれば見えてくるはず。

この地球に命を持って生まれてきた以上、様々な環境要因などによる個人差は全て多様性のための種なのだ。そしてその中でどう遊びまわるかは、あなたに委ねられた最大最高の宇宙からの恩恵なのだ。

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