直観と創造

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昨日まったく思いもよらなかったようなことを、今日思いつく。閃きは天が人類に与えた最高の能力だ。八方塞がりの状況が拓ける。モヤモヤしていた概念的な渦が一筋の道になる。悩み苦しんでいたことに答えが導き出される。停滞した心に背中を押す突風が吹く。

毎日、数多くのことで閃く。僕の心の中には常に大量の「課題リスト」がある。それはあえて書き起こされておらず、頭ですべて処理している。優先度もリアルタイムに変化するし、内容も生き物のように変化する課題リスト。

意識から追い出されていたリスト項目の答えがスッと現れる。これが最近とくに頻繁で、1日のうちに何度も起きることが珍しくない。答えが出ると、その課題は一歩前進する。行動の必要があれば、意識する間もなくその行動を済ませる。今日のうちに済ませる。行動するベストのタイミングが今じゃないときには、またどこかから雷光のような直観を得て、はやる心を抑え、深呼吸を促す。そうだ、いまはまだこのタイミングではない。行動予定リストへ移そう。行動予定リストに移ったすべての項目は、適切なタイミングでまた雷光のような閃きによって、「今だ!」ということがわかる。そのタイミングよりも前でも後でもいけない。そのときはなんの躊躇もなく行動に移る。考える余地すらないのだ。

自分でもどこに向かっているのか、何を作ろうとしているのか理解できていないことも多い。でも欲求というシグナルの本質を信頼しているから、きっとどこかに繋がっているということで、自分の直観を全面的に信頼するのが結果的にはベストであるということを僕は知っている。どんなに知性が高くても、大脳で考えて理屈が通っていても、統計が指し示すことと違う結論であろうと、この直観に勝る行動指針は存在しない。野性のもつ強い力は、生まれたてのままでは弱い。しかし人生のなかで、ひとつひとつ眼の前にあるworkをただ処理するのではなく、完全に腑に落ちさせて自分の身体に染み付かせる指針で様々な経験を積み重ねていけば、間違いなく野性や直観力は育まれる。

一朝一夕では育たない。自転車の乗り方という本を何度も読んで内容を完璧に把握しても、実際に自転車に乗れるようにはならないのだ。野性の直観力を育てるためには、後者だけが重要だ。そして体験が先にきて、学びはその後。現代の教育機関、とくに日本の教育機関の課題はそこにある。学習は常に「体験」→「知識」の順序であることが無駄もなく効率もよく効果も高い。ところが学校では「知識」を教え、体験はごく一部あるいは一切教えない。体験のところは学生の皆さん自分で勝手にやってくださいねという丸投げで、さらに指摘すれば教える側の人間も知識だけで体験を持っていなかったりする。

知ることと体得することの違いは現代の日本においてずっと軽視されるか認識されずにきたことで、だからこそとても大切なテーマだ。

目を瞑ると、数式が出てくるのではない。瞼の裏の暗闇の世界に輝く無数のパーティクルが構成して僕の目に見えるのは、まだ数式化も言語化もされておらず、絵にも音にもなっていない、美しい体系だ。それが視覚化されたような形で瞬間瞬間の形を変えて僕に見せつけてくる。色、形、音、動きという誠にわかりやすい表現で僕の眼の前に現れる。しかしそれをそのまま他人に見せることができない。瞼の裏にあるからだ。なんとかしてそれを現実世界に示して、共感者を見つけ、現実世界に結びつけていくか。これがイメージの投影であり、プロダクションである。

瞼の裏のイメージとはまた別の次元にあるのが、閃き、直観といわれるものだ。これはイメージというものとは全く違うはたらきかたをする。稲妻のように一瞬で降りてくる。その瞬間、さまざまな物事に対する理解に変化が起きる。それ以前とそれ以後では、ものごとの視点が違っている。違う角度から物事を見れば、より多角化した情報があふれてくるのは言うまでもない。

予知について。予知は決してオカルトでも非科学的なことでもない。科学というのは単なる視点のひとつでしかないことは、科学に人生を捧げている者ならば誰でも知っているはずのことだ。予知というものは、科学的にも論理的にもまだ説明がなされていないだけで、存在する。

予知の仕組みを言葉で説明するのは難しい。それは体系的にまるごと直観として降りてくるし、他の人はどうだか知らないけれど個人的にはいつ降りてきたのかもわからないし、予知なのかすでに過去(現在以前)にある事実認識なのかの境界線も明確でないからだ。たとえば目の前にリンゴがあるとしよう。僕はそのリンゴを見て「リンゴがある」と認識する。同様にその横には「オレンジがある」と認識したとき、語彙の違いに注意して読んでいただきたいのだが、「ある」(exists)という僕の表現には、過去形・現在形・未来系の束縛がない。現在の日本語に、時系列を無視した表現が存在しないので「ある」と書くしか方法がないのだ。ところが現在進行系でそこにはオレンジがないとき、「ある」と表現した僕の発言は「嘘」と断定されてしまう。そして翌日、誰かがそこにオレンジを置いた。すると傍観者は「おまえの話を聞いて誰かがいたずらしたんだ」とか「おまえの発言に無意識に影響されてそうしたんだ」とか「ただの偶然だ」とか、どうにか自分の「常識」を覆さない形での説明に収めようとしてしまう。ところがそれは僕の視点からすれば嘘であり、必然でそこにオレンジがあることを直観で理解している。それを説明しようとするとこんどは、その直観についての説明を【相手が納得できる形で】説明することを求められてしまう。直観というのは「そこにオレンジが来ます」とか文字にできるような形でやってくるものではないし、映像イメージで現れるものでもない。前述した「瞼の裏のイメージ」というものも、実際には視覚情報ではない(かもしれない)。うまく説明することが難しいが、たとえばそれが仮に視覚情報だったとしたら、なぜ瞼の裏のイメージには音が伴っているのか説明がつかない。匂いや触覚を伴っていることもある。あとは、うまく説明できない「感覚的なもの」がたくさん伴っている。

他人の世界観に合わせて物事を完全に納得できるように説明することは不可能だ。だからこそ個人差があり、多様性という美しいシステムが存在し得る。

このような不可解なことを説明するために僕はさまざまな学習をしてきた。すべては自分が見えているものを説明できる何かを探すためだ。しかしここでたとえ量子論を持ち出してみても、聖書を持ち出しても、結局は何かしらのバイアスに支配された、全体のごく一部を説明し得たようなし得なかったような状態になるだけだ。本当に見えるものは自分の中にしか見えない。人為的に残されたすべての事象(本なども含む)外から入る情報は、全体のごく一部しか表現し得ない。それよりも、風や太陽のほうがよっぽど雄弁に様々なことを語っている。まず大切なのは、内から湧き上がる疑問を持つことだ。それが誰でもない自分自身から生まれた好奇心そのものであり、理解のはじめの一歩だ。

もうひとつ大切なこと。創造は、創造者が誰であるのかにこだわっていては本質が見えないということ。実際、属人化させる必要がないものを経済的事情や名誉的事情によって属人化させることに僕は意味を見出さない。世の中には、Aさんが発明したものやBさんが作ったもの、と言われているものがたくさんあるが、それ自体ナンセンスなことである。AさんやBさんが創造するためには、形而上・形而下ともにさまざまな影響を受けているものだし、実際に物理的な支援も受けているし、最終的にその創造物と個人を結びつけたいという現代の社会的欲求を満たすためにそのように結びつけが発生するだけだ。大事なのは誰が作ったのか、ではなく、それがこの世にあるのか・ないのか。

それがわかれば、願いというものの力も見えてくる。願ったものは思いもよらない形で現実化する。それを知りたければ、自身の観察力を上げていく必要がある。広大かつ繊細。そのどちらも欠かせないわけだから、物事の効果的な見方や、情報の見分け方などを自分で体系化していくことが求められる。その先には面白い世界が待っていることは保証しよう。

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