数学と世界

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数学の理解を深めるために毎日時間をとって勉強するのが最近の楽しみの1つです。

数学をきっちりと体得したいという欲求を持ったきっかけは、一般相対性理論。アインシュタインのアレです。きちんと彼が残した言葉を追って、理解した上で自分の疑問を解決したい。

新しく買ったテレビの使い方を知りたかったら、マニュアル読んで実際に触ってみろって事です。相対性理論を理解するのも全く同じ。理解するために必要なマニュアルは、世界中に溢れてる。

不思議なもので、数学を学ぶと数学を学ぶ必要がある理由がどんどん増えてくる。

例えばいま、人工知能の分野で必要とされているスキルはたくさんありますけど、理論や概念の話だけしてても一部の人を除いて多くの人から興味を持ってもらえないんですね。みんな限定された実践が大好きな人ばっかりで、特に日本人はその傾向が昔から強いので、応用科学が出来ないと話も聞いてもらえなかったりするのがとてもアホらしいんですけど、応用科学の分野も自分でやってみる意識が生まれたのは、ちょっとしたきっかけがありました。数式や理論で話すと聞いてくれる人が増える。それだけなんですけどね。

実際にMLやDLを実践してみようということになると、コンピュータ技術としてはPythonやRやSQL、ネットワーク、さらに数学は線形代数や統計の知識を深める必要が出てきます。

実践で必要最低限の数学的概念の理解ができて初めてライブラリや命令の組み立てができるわけです。

さて数学ですが、高校数学の教科書をベースにした参考書と、Khan Academyのオンラインコースで基礎を固めて、疑問に思ったことは自分で調べていくスタイルで学んでます。とくに順序はなくて、興味のある論文を理解するために必要な基礎を再び固めているような流れです。

するといろんな疑問が無数に湧いてきて、調べてるうちに、まず頭から離れなくなったのが、かの有名なフェルマーの最終定理を証明するために役立った、谷山=志村予想。こいつはアンドリュー・ワイルズによって証明され、いまはモジュラー性定理と呼ばれておりますが、「有理数体状の楕円曲線はモジュラー関数で一意化される」というテーマを証明するために現れる流れの中で、アレフ数つまり無限の濃度について疑問が出る。とくに対角線論法による実数の濃度の説明に何か引っかかるものを感じる。何が引っかかっているのか突き止めたい。そうこう試行錯誤してるうちに、我々がいかに10進数の概念に縛られて物事を見ているのかについて頭の中に広がりが生まれ、さらに小数の位という概念についてまた無限の可能性を感じ、実数と自然数の関係性について、頭の中にカラフルなフラクタルが広がり、既成概念の書き換えが起きてくるのです。進数や基数について思いを馳せれば、時空、時間、そしてフーリエ変換、エネルギー、周波数と来るわけですから、自然とそれは太陽を回る惑星の軌道から原子核をまわる電子、そして「超ひも理論」(superstring theory)にまでイメージが広がっていきます。ところで、ひも理論と訳したのは誰ですかね。センスがないですよね。中身もあんまりセンスがあるとは思えませんけど。だいたいコンパクト化されている6次元とかDブレーンとか、着眼点は特異だけど、展開にセンスを感じません。僕はあんまり好きじゃないのです。

世の中の様々なものに対する直観が冴えてくる。

例えばゲーミフィケーションとかいう概念について言葉は知ってたけど具体的にどんなもんなの? と思って少し調べてみると、もうホントに馬鹿らしくなるくらい中身が薄い。決めつけや思い込みの羅列、相互に繋がりのないでっち上げ。オカルトとも呼べるこれは、実際には世の中で多くの人がそれを信じているし、「結果が出てる」と短絡的に思い込んでいるし、これこそが人間の知性のもたらした恩恵の1つの形だとすら思い込んでいる可哀想な無学かつ無思考の連中がたくさん蔓延ってることがわかります。ゲーミフィケーションがどれだけ馬鹿らしい話であるのかについては、また別の機会に書きます。

どんな世界にもパラダイムシフトがとても大切な意識の広がりのきっかけであることが明らかであるのに対して、明らかなパラダイムシフトを経験していない人には、次元の異なる話が理解できないため、高度な話をオカルトと決めつけ、「バカな自分にも理解しやすい」話をする相手を天才として崇める傾向があります。

世の中そんなことばかりで溢れかえっているので、指摘するたびに比較論法する人(Aの話をしてるのにBやCの類似性を根拠に議論の優位性確保ばかり着眼する人)との会話においては、多様性のないグループで比較論法しても無益であることの指摘をしなければならんのですが、そのためにはいま相手が認識している世界観が限定されたグループの中にあることを認識してもらう必要があります。けれども得てしてこの手の会話で客観的意見は相手に受け入れられない。相手のプライドを傷つけてしまうからですね。俺の世界の端っこがわかるとか、お前は偉そうなこと言いやがって何様のつもりだ、となるんです。

ですから最近は、1人でやる事にしてます。当然ながらあらゆることの進捗は遅くなるし、刺激も減りますから、1人でやる事には何のメリットも感じられません。しかし仲間が得られれば誰でもいいわけではないことは、体をもって痛感しました。

わがままを言わせてもらえるならば、話の通じる仲間が欲しい。

ここについては、46年生きてきて一度も満たされたことがない。

条件はとっても緩いんです。見たもの感じたものに対する純粋性です。

全ての子供とは言いませんが、多くの子供とは話が通じる瞬間がたくさんあります。でも成長とともに常識的な思考に支配されていく姿を何度も目にしてきて、ああこれは、自分の捉え方の問題であると理解しました。そこで現れるのが、モジュラー性だったり、量子の世界に出てくることと重なり合う経験を重ねて、なるほど学問というのは科学者の夢で、純潔性の象徴として生きている、だからこそ宗教観を持たされやすくて、心の強さを兼ね備えないとn+1次元の広がりを意識できないジレンマに陥る人がほとんどであるという解を自分の中に持っているわけです。

神々の遊びのようなものです。哲学的発想から数式による仮説そして証明、物理的観測への流れ。

ともかく数学にしろプログラミングにしろ絵画にしろ、全ての事象に普遍的に流れているものは、integrityという名のもとに、個の中にある定数を基軸にしたものの見方を深めていかないと極めていくことができないのだなと日々感じております。

1という数字は誰かが決めた単位です。そこに疑問を持つことが、0を理解したり2を理解したりするための無限の広がりを楽しめる事につながるってことです。

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