音無神社

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伊東市内、音無町に音無神社という名前の神社がある。偶然見つけるに至った神社であったが、神社の名前に遇な縁があり、また敷地内に玉猫神社なる猫を祀る社があるという情報を得て興味を持ち、調べてみると、源頼朝と八重姫の悲しい話に関わる神社であった。

音無神社

あらすじは、Wikipediaから引用した以下の文章をどうぞ。

八重姫

八重姫(やえひめ、生没年未詳)は、平安時代末期の女性。伊豆国伊東庄(現・静岡県伊東市)の豪族であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の三女。源頼朝の最初の妻とされる。頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。

『曽我物語』によれば、14歳で伊豆国へ流罪となり、在地豪族の伊東祐親の監視下で日々を送っていた頼朝は、祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女・八重姫と通じ、やがて男子を一人もうけて千鶴御前と名付けた。千鶴御前が3歳になった時、大番役を終えて京から戻った祐親は激怒し、「親の知らない婿があろうか。今の世に源氏の流人を婿に取るくらいなら、娘を非人乞食に取らせる方がましだ。平家の咎めを受けたらなんとするのか」と平家への聞こえを恐れ、家人に命じて千鶴を轟ヶ淵に柴漬(柴で包んで縛り上げ、重りをつけて水底に沈める処刑法)にして殺害し、娘を取り返して同国の住人・江間の小四郎(北条義時の通称と同じだが別人。義時は安元元年(1175年)時には13歳。『曽我物語』の異本には、江間の小四郎が討ち死にした後に北条時政がその跡を賜ったとするものもある。さらにその子を北条義時が預かって育てたとするものもある)に嫁がせた。さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けたが、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた祐親の次男・祐清が頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は祐清の烏帽子親である北条時政の邸に逃れたという。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがて時政の長女・政子と結ばれることになる。その後の八重姫については、入水自殺したとも、北条氏(最誓寺の伝承)や千葉氏(『源平闘諍録』では頼朝の計らいで相馬師常と結ばれたとする)と縁を結んだなど、様々に伝えられる。
上記の八重姫と千鶴御前に関する記述は虚構の多い『曽我物語』や軍記物語の『源平闘諍録』のみで、頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ない。ただし、鎌倉幕府編纂書である『吾妻鏡』の治承4年10月19日(1180年11月8日)条と養和2年2月15日(1182年3月21日)条に、安元元年(1175年、頼朝29歳)の9月頃、祐親が頼朝を殺害しようとした所を、次男・祐清がそのことを告げて、頼朝が走湯権現に逃れたこと、挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間に因縁があったことは認められる。また、保立道久は頼朝と八重姫の婚姻は祐親自身の意向であったが、頼朝が祐親の縁戚である北条時政の娘(政子)とも関係したことに激怒したのが襲撃の原因であると推測し、曾我兄弟の仇討ちの発端となる工藤祐経による河津祐泰(祐親の子)殺害には頼朝による報復としての性格(祐経への協力)があった可能性を指摘している(保立道久「院政期東国と流人・源頼朝の位置」『中世の国土高権と天皇・武家』校倉書房、2015年 ISBN 978-4-7517-4640-0)。
伊豆の国市中条に八重姫を祀った真珠院がある。伊東市音無町には頼朝と八重姫が逢瀬を重ねたという音無の森の音無神社、八重姫が千鶴丸を祀ったとされる最誓寺などがある。

Wikipedia

曾我物語

頼朝、伊藤に御座せし事

 抑、兵衛佐殿、御代を取り給ひては、伊東・北条とて、左右の翼にて、いづれ勝劣有るべきに、北条の末はさかえ、伊東の末は絶えける、由来を詳しく尋ぬるに、頼朝十三の歳、伊豆の国に流されて御座しけるに、彼の両人を打ち頼み、年月を送り給ひけり。然るに、伊東の二郎に、娘四人有り。一は、相模の国の住人P104三浦介が妻なり。二には、工藤一郎祐経に相具したりしを取り返し、土肥の弥太郎に合はせけり。三四は、未だ伊東がもとにぞ有りける。中にも、三は、美人の聞こえ有り。佐殿聞こし召して、潮のひる間の徒然と、忍びて褄を重ね給ふ。頼朝、御志浅からで、年月を送り給ふ程に、若君一人出で来給ふ。

若君の御事

 佐殿、喜び思し召して、御名をば、千鶴御前とぞ付け給ひける。つらつら往事思ふに、旧主が住まひし、古風のかうばしき国なれ共、勅勘をかうむりて、習はぬ鄙の住まひの心地ぞ有りつるに、此の物出で来たる嬉しさよ、十五にならば、秩父・足利の人々、三浦・鎌倉・小山・宇都宮相語らひ、平家に掛け合はせ、頼朝が果報の程をためさんと、もてなし思ひかしづき給ふ。かくて、年月をふる程に、若君三歳になり給ふ春の頃、伊東、京より下りしが、しばし知らざりけり。或る夕暮に、花園山を見て入りければ、折節、若君、乳母にいだかれ、前栽に遊び給ふ。祐親、是を見て、「彼は誰そ」と問ひけれども、返事にも及ばず、逃げにけり。あやしく思ひて、即ち、内に入り、妻女にあひ、「三つばかりの子のものゆゆしきP105をいだき、前栽にて遊びつるを、「誰そ」と問へば、返事もせで逃げつるは、誰にや」と問ふ。継母の事なりければ、折をえて、「其れこそ、御分の在京の後に、いつきかしづき給ふ姫君の、童が制するを聞かで、いつくしき殿して設け給へる公達よ。御為には、めでたき孫御前よ」と、をこがましく言ひ成しけるこそ、誠に末も絶え、所領にもはなるべき例なり。然れば、「讒臣は国を乱し、妬婦は家を破る」と言ふ言葉、思ひ知られて、あさましかりける。祐親、是を聞き、大きに腹を立て、「親の知らざる聟や有る。誰人ぞ。今まで知らぬ不思議さよ」と怒りければ、継母は、訴へすましぬるよと嬉しくて、「其れこそ、世に有りて、誠に頼り坐します流人、兵衛佐殿の若君よ」とて、嘲弄しければ、いよいよ腹を立て、「娘持ち余りて、置き所無くは、乞食非人などには取らするとも、今時、源氏の流人聟に取り、平家に咎められては、如何有るべき。「毒の虫をば、頭をひしぎて、脳を取り、敵の末をば、胸をさきて、胆を取れ」とこそ言ひ伝へたれ。詮無し」とて、郎等呼び寄せて、若君いざなひ出だし、伊豆の国松川の奥を尋ね、とときの淵に柴づけにし奉りけり。情無かりし例也。是や、文選の言葉に、「しやうにみちては、瑞を豊年に現し、丈に有りては、禍をはんとくに現す」。誠に余れる振舞ひは、行く末如何とぞ覚えける。剰へ、北の御方[?]をも取り返し、同じき国の住人江間の小四郎に合はせけり。名残惜しかりつる衾の下を出で給ひて、思はぬ新枕、かたしく袖に移り変はりし御涙、さこそと思ひ遣られたり。是も、祐親が、平家へ恐れ奉ると思へども、わうきう・董賢ふん、三百たるにも、楊雄・仲舒ふんか、其の門につまびらかにせんにはしかずと見えたり。

曾我物語

源平闘諍録

九 右兵衛佐(うひやうゑのすけ)頼朝、伊東の三女に嫁する事
 然(さ)る程に、同じき年の弥生(やよひ)の比(ころ)にも成りければ、「遠山に霞聳(たなび)きて、鴈北に皈(かへ)る。中林に花開きて、鶯客を呼ぶ」と打(う)ち思はれて物哀れなり。流人右兵衛佐頼朝、藤九郎(とうくらう)盛長・佐々木の太郎定綱を召して言(のたま)ひけるは、「頼朝十三の時、平治元年十二月廿八日、当国〈 伊豆国 〉に左遷せられてより以来(このかた)、縁友(ゆかり)も無(な)くて徒然(つれづれ)なれば、伊東の次郎祐親(すけちか)に娘四人有りと聞く。嫡女は三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)が妻女、二女は土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)遠平(とほひら)が妻女、三四は未(いま)だ傍家を見ず、養ひて深窓に有りと聞く。而(しか)るに国中第一の美女と云々。〓(めと)り通はんと欲(おも)ふは如何(いかが)有るべきや。」盛長申しけるは、「伊東の次郎は当時大番役と為(し)て上洛(しやうらく)の跡なり。境柄(をりから)然(しか)るべしといへども、君は流人にて貧窶(ひんル)、世に無き御身なり。祐親(すけちか)は当国においては有徳(うとく)威勢の者なり。請(う)け引き奉らん事不定(ふぢやう)なり。能々(よくよく)御(おん)-計(ぱから)ひ有るべきか。」定綱申しけるは、「何(いか)に藤九郎(とうくらう)殿、御辺は三条の関白謙徳公の御末と聞く。定綱は苟(いやし)くも宇多天皇の後胤、近江(あふみ)源氏の最中(もなか)なり。設(たと)ひ我等聟に成らんと所望すとも嫌はれじ。況(いはん)や君は六孫王(ろくそんわう)の苗裔(べうえい)、八幡殿(はちまんどの)四代の末葉(ばつえふ)、東国の奴原(やつばら)が為(ため)には重代の主(しゆう)なり。設(たと)ひ世に無き御身為(た)りといへども、争(いかで)か仰せを軽んぜんや。然(さ)れば則(すなは)ち、内々仰せられんに、若(も)し用ゐずば、則(すなは)ち我等此れを抑(おさ)へて取るべし」と申しければ、頼朝此れを聞き、「定綱の只今(ただいま)の俗姓(ぞくしやう)の沙汰、無益(むやく)なり。計ふ所も荒義なり。和殿原(とのばら)と我が身とは時に依(よ)つて本秩なり。当時においては詮無(な)し。只(ただ)〓睡(クヒネム)つて世を待つべし。然(さ)れば則(すなは)ち、艶書を飛ばして心を〓(はか)るべし」と云ひながら、彼方(かなた)の身親しき女に附けて度々(たびたび)此れを遣はせども、敢(あへ)て以つて之(これ)/を用ゐず。
 頼朝猶(なほ)思ひも止(や)まず、心尽しに成りにければ、人知れず又覚食(おぼしめ)しける様は、「昔、業平(なりひら)の中将、二条の后に心を通はして、何度(いくたび)か思ひ労(わづら)ひし。加之(しかのみならず)、『百夜(ももよ)の榻(しぢ)の端墻(はしがき)も、千束(ちつか)生(お)ふる錦木』と云ふ事有り。是(こ)れ先蹤(せんしよう)無きにしも非(あら)ず。頼朝も争(いかで)か黙止(もだ)すべき」とて、艶書の数も重なる間、岩木ならねば靡(なび)きにけり。兵衛佐は廿一、左馬頭の三男、容顔(ようがん)如勇(ゆゆ)しき男(をのこ)なり。伊東の三女は十六歳、国中第一の美女なり。互ひに契つて月日を経(へ)、一人の男子(なんし)を生み得(え)たり。容顔(ようがん)美麗(びれい)にして、潘岳(はんがく)玉山(ぎよくざん)に相(あ)ひ-同じ。形皃(けいばう)端正(たんじやう)にして、上界の天童に異ならず。
 然(さ)る間、頼朝思はれけるは、「我当国に流罪せられて、田舎の塵に交はるといへども、此(こ)の子を設(まう)けたることは悦びなり」とて、千鶴(せんづる)と名づけられたり。頼朝言ひけるは、「此(こ)の子十五に成らん時、伊東・北条を相(あ)ひ-具して先陣(せんぢん)に打たせ、定綱・盛長を指(さ)し廻(めぐ)らし、東国の勢を招き、頼朝都に馳せ上つて、父の敵(かたき)清盛を打たん」と言ひながら、二所権現(にしよごんげん)・三嶋明神の御宝殿に秘(ひそか)に願書(ぐわんじよ)をぞ納められける。
仁安三年〈 戊子(つちのえね) 〉三月廿日、高倉院御践祚(ごせんそ)の後、法皇〈 後白河法皇 〉別(わ)く方無(な)く、四海の安危をば、掌(たなごころ)の内に照らし、百王の理乱をば心の中に懸け、万機(ばんき)の政務を聞食(きこしめ)されければ、法皇の近く召しつかはれける公卿・殿上人以下(いげ)、北面の輩(ともがら)に至るまで、皆程々に随つて、官位俸録身に余り、朝恩を蒙(かうぶ)るといへども、人の心の習ひなれば、猶(なほ)此れを不足に欲(おも)ひける間、此(こ)の入道の一類のみ多く国を塞(ふさ)ぎ、官を妨(さまた)ぐる事を、各(おのおの)目覚(めざま)しく思ひし程に、疎(ヲロソカ)の人も無き時は、則(すなは)ち寄り合ひ私語(ささや)きけるは、「此(こ)の入道の亡びたらば、其の国は明きなん、其の官には成りなん」とぞ申しける。
 法皇、仰せ有りけるは、「昔、国常立尊(くにのとこたちのみこと)より第七代伊奘諾(いざなき)・伊奘冉(いざなみ)の尊の御子天照大神(あまてらすおほみかみ)、我が朝(てう)秋津嶋(あきづしま)を知食(しろしめ)ししより以来(このかた)、今に至るまで、忝(かたじけな)くも十善の尊号を受け、苟(いやしく)も万機(ばんき)の宝位に居す。末代といへども王法未(いま)だ絶えず。臣下争(いかで)か軽んずべけんや。就中(なかんづく)、古今にも朝敵を打(う)つ者之(これ)多し。田村麻呂(マろ)〈 嵯峨天皇の時の人 〉は高丸(たかまる)を誅(ちゆう)して権大納言(ごんのだいなごん)の位に登るといへども、未(いま)だ摂録(せふろく)の臣には補さず。貞盛・秀郷が承平(しようへい)の将門(まさかど)を打(う)ちし、源頼義(よりよし)が天喜(てんぎ)の貞任(さだたふ)を誅(ちゆう)せし、其の勧賞(けんじやう)、受領(じゆりやう)には過ぎず。然(しか)るに清盛入道、官位俸(捧)録其の身に過ぎ、一門の繁昌世に超えたり。故に永暦(えいりやく)・応保の比(ころ)より悪行(あくぎやう)倍増し、無道非礼なり。是(こ)れ王法の尽くるか、将又(はたまた)仏法の滅ぶるか」とぞ仰せ有りける。
十 頼朝の子息(しそく)、千鶴(せんづる)御前失なはるる事
 嘉応(かおう)元年〈 己丑(つちのとうし) 〉七月十一日、伊東の次郎祐親(すけちか)、大番役も終(は)てければ、京より下向して、前栽(せんざい)の方を見ければ、三歳計(ばか)りの少(をさな)き者を、小さき女童(めのわらは)の之(これ)/を懐(いだ)きて遊びければ、祐親(すけちか)此れを見て、「袷(あ)の少(をさな)き者は誰(た)が子ぞ」と妻女に問ひければ、妻女対(こた)へけるは、「袷(あ)れこそ殿の秘蔵(ひさう)せらるる三の御方の、制するをも聞かず、流人右兵衛佐殿に相(あ)ひ-具して設(まう)けらるる御子、千鶴(せんづる)御前とは是(こ)れなり」と云はれければ、祐親(すけちか)此れを聞いて、大きに腹立(ふくりふ)して申しけるは、「娘なりとも親しむべからず、孫なりとも愛すべからず。親の命(めい)を背き、流人の子を生む。平家の聞え有らば、祐親(すけちか)定めて其の罪科を蒙(かうぶ)るべし。急ぎ急ぎ披露無き前(さき)/に彼(か)の者を失ふべし」とて、郎従二人・雑色(ざふしき)三人を召し寄せ、孫の千鶴(せんづる)を請(う)け取らす。五人の者共、此れを請(う)け取り、伊豆国松河の白瀧に将(ゐ)/て行き、河の縁(はた)に下り居(す)ゑ奉りければ、少(をさな)き人四方を見廻したまひて、「父御は何(いづ)くにぞ、母御は何(いづ)くにぞ」と言へば、「袷(あ)れ、袷(あ)の瀧の下に」と此れを申す。「去来(いざ)、然(さ)らば疾(と)く行かん」と言(のたま)ふ時、此(こ)の者共、情け無(な)く沈めを付け、罧〓(ふしつけ)にするこそ糸惜(いとほ)しけれ。
P1152
 爰(ここ)に祐親(すけちか)の娘、少(をさな)き人を失はれ、悶(もだ)へ焦(こが)れ悲しみて、「穴(あな)心憂(こころ-う)や。吾が子をば何(いか)/なる人の此れを請(う)け取りて、何(いか)/なる所へ此れを将(ゐ)/て行きけん。何様(いかさま)なる目を見せ、何様(いかさま)にか此れを失ふらん。哀れなるかな、母は此(こ)の土に留まり、子は冥界に趣きけり。我が身我が身に非(あら)ず、我が心我が心に非(あら)ず。仏神三宝、然(しか)るべくは、吾が命を召し取りたまへ。生きて物を思はんも堪(た)へ難(がた)し」と、天に仰ぎ地に覆(ふ)して、泣き悲しめども甲斐(かひ)こそ無けれ。
 剰(あまつさ)へ、祐親(すけちか)、情け無(な)く頼朝の縁婦を引き去り、当国の住人江葉(えマ)の小次郎近末(ちかすゑ)を聟に取らんと相(あ)ひ-擬する処に、此(こ)の女房、夫婦の別れを悲しみ、若君の余波(なごり)を思ひしが故に、深く父母を恨み、近末(ちかすゑ)に迎へらるるといへども、敢(あへ)て以つて靡(なび)くこと無(な)し。秘(ひそか)に彼(か)の所を迯(に)げ出で、縁者の許(もと)に忍び籠(こも)りぬ。江葉の小次郎、力及ばず止みにけり。
右兵衛佐、愛子を失はれ縁婦を去られ、一方(ひとかた)ならず難(なや)みければ、生きて死せるが如(ごと)く思はれけり。定綱・盛長、右兵衛佐殿に申しけるは、「設(たと)ひ君世に在(ましま)さずといへども、我等、弓箭(きゆうせん)の家に生まれて候へば、名を惜しむ者なり。我等、君に付き添ひ奉ること、世に以つて隠れ無(な)し。重代の名を朽(くた)さんこと、実(げ)に以つて口惜しく候ふ。我等二人手を取り組んで、祐親(すけちか)男に行き向つて死ぬべく候ふ」と申しければ、右兵衛佐言ひけるは、「己等(おのれ-ら)が志、有り難(がた)し。重代の勇士の身為(た)る間、各(おのおの)寔(まこと)に然(さ)こそ思ふらめ。然(さ)れども頼朝、当国に流罪せられしより以来(このかた)、父の敵(かたき)清盛を討たんと欲(おも)ふ志、日夜朝暮に晴れ遣らず。然(しか)るに、何ぞ大事の敵(かたき)を閣(さしお)いて、小事に命を失ふべけんや。己等(おのれ-ら)が我も我もと思はば、此(こ)の事思ひ止むべし」と制せられける間、「袷(あは)れ、袷(あは)れ」と云ひながら、仰せに随ひて止みにけり。
 彼(か)の女房の思ひを物に譬(たと)ふれば、異国に漢帝の御時、王昭君と申しける后は、〓(ゑびす)の手に渡され、北路の旅に向かひて、「翠黛(すいたい)-紅顔(こうがん)、錦繍(きんしう)の粧(よそほ)ひ、泣(なくな)く沙塞(ささい)を尋ねて、家郷(かきやう)を出づ」と歎かれけるが如(ごと)し。此(こ)の女房も、頼朝の館を出でたまひて、近末(ちかすゑ)の許へ渡りぬ。争(いかで)か彼に更(かは)らんや。亦頼朝が歎きを物に譬(たと)ふるに、唐の玄宗皇帝の楊貴妃を失ひたまひし思ひの如(ごと)し。其れは然(サレ)ども方士(はうじ)をして蓬莱宮に求めしめ、玉妃、鈿合(デンがふ)金釵(釼)(シヤ)を以つて方士(はうじ)に与へて形見に授け、「以つて天に在らば願はくは比翼の鳥と作(な)り、地に在らば又連理の枝と為(な)らむと、情けの詞を契りし験(しるし)と為(な)さむ」と云ひて遣はす。方士(はうじ)返つて之(これ)/を奏す。皇帝即(すなは)ち〓(なぐさ)みたまふ。
十一 頼朝、北条の嫡女に嫁する事
 右兵衛佐は彼には似ず、伝へ語らふ人も無ければ、遣(や)る方も無き物思ひなり。加之(しかのみならず)、祐親(すけちか)入道、平家の尤(とが)めを恐れ、秘(ひそか)に夜討ちに為(せ)/んと欲(す)。然(しか)るに彼(か)の入道の子息(しそく)、伊東の九郎祐澄(すけずみ)、竊(ひそか)に頼朝に申しけるは、「祐澄(すけずみ)が父入道、俄(にはか)に天狗(てんぐ)其の身に詫(ツ)き候ひて、君を夜討ちに為(し)奉らんと相(あ)ひ-議(はか)り候ふ。設(たと)ひ非道を工(たく)むといへども、親の過(とが)を顕はすべきには非(あら)ねども、此(こ)の頃日(ひごろ)君に相(あ)ひ-馴れ奉つたる上、又指(さ)したる過も有(ましま)さず。此(こ)の事を言はずは冥の照覧恐れ有り。然(さ)れば只(ただ)、入道の思ひ立たざる前(さき)/に、君須(すべから)く此(こ)の所を立ち出でたまふべし。努々(ゆめゆめ)御披露有るべからず候ふ」と申しながら、波羅々々(はらはら)と泣きければ、右兵衛佐言ひけるは、「入道の為(ため)に、其れ程に思ひ籠められたる上は、頼朝此(こ)の所を立ち忍ぶといへども、来たるべき殃(わざはひ)をば遁(のが)るべからず。又我が身においては謬(あやま)り無ければ、自害を為(す)るには及ばず。汝が志、生々世々(しやうじやうせせ)にも忘れ難(がた)し」と言ひければ、九郎即(やが)て立ち去りぬ。
 右兵衛佐、定綱・盛長を召して言(のたま)ひけるは、「祐親(すけちか)入道、頼朝を討つべき由(よし)、密(ひそか)に此れを聞き得(え)たり。設(たと)ひ頼朝一人こそ討たるとも、己等(おのれ-ら)は討たるべからず。己等(おのれ-ら)、食頃(しよくけい)此(こ)こに留まり、後日に頼朝を尋ぬべし」と言ひければ、盛長・定綱申しけるは、「所詮(しよせん)候(ざうら)ふ、彼(か)の入道思ひ立たざる前(さき)/に、還(かへ)つて此れを討ち候はん」とて、彼等二人思ひ切つて出で立ちければ、右兵衛佐言ひけるは、「兼ねて言ひしが如(ごと)く、未(いま)だ父の敵(かたき)清盛入道を討たざる間、何事の有りとも我と騒ぐべからず。相(あ)ひ-構へて、汝等抑(おさ)へ静むべし」とて、大黒鹿毛(おほくろかげ)と云ふ馬に乗り、鬼武(おにたけ)と云ふ舎人(とねり)を相(あ)ひ-具し、八月十七日の夜半計(ばか)りに、伊東の館を打(う)ち出でて、北条へ馳せ越えけり。夜も漸(やうや)く明けければ、定綱・盛長跡を追ひ、尋ね行きぬ。
 右兵衛佐、祈念して申されけるは、「南無皈命頂礼(きみやうちやうらい)、八幡殿(はちまん)三所聞食(きこしめ)すべし。頼朝の先祖伊与守(いよのかみ)頼義(よりよし)朝臣、奥州の貞任(さだたふ)を迫(せ)めし時、嫡男義家を以つて八幡殿(はちまん)大菩薩の氏子と為(な)し、其の名を八幡殿(はちまん)太郎と号す。此れに依(よ)つて、大菩薩、氏子に至るまで護(まも)るべしと云ふ御誓ひ有り。然(しか)るに頼朝は是(こ)れ八幡殿(はちまんどの)より四代の氏子なり。然(しか)るべくは八幡殿(はちまん)大菩薩、日本国を頼朝に打(う)ち随はしめ給へ。頼朝の子(こ)の敵(かたき)、伊東入道を打(う)ち取らん」と言(のたま)ひ了(は)て、二所権現(にしよごんげん)に精誠(せいぜい)を致さる。
 同じき十一月下旬の比(ころ)、右兵衛佐、伊東の娘に猶(なほ)懲(コ)りず、北条の四郎の最愛の嫡女に、秘かに忍びて通はれけり。此(こ)の世ならぬ契りにて有りけり。故に慇(ねんごろ)に偕老(かいらう)を結びぬ。時政は夢にも此(こ)の事を知らず。北条、大番を勤めて下りける程に、路より此(こ)の事を聞き、大きに驚きながら、平家の威を歎き恐れしが故に、同道(どうだう)して下向しける平家の侍、伊豆の目代(もくだい)和泉の判官(はんぐわん)兼隆に約束せしむ。然(さ)る間、同じき十二月二日、娘を取り還(かへ)し、目代(もくだい)兼隆が許へ渡す。然(さ)れども、女房都(すべ)て靡(なび)かず。未(いま)だ亥(ゐ)の尅(こく)に成らざる以前に、秘かに彼(か)の所を迯(のが)れ出でて、速やかに伊豆の御山の宿坊に致れり。使者を頼朝の許へ立てられければ、十日、右兵衛佐、鞭を上げて馳せ来たる。目代(もくだい)此れを聞き及ぶといへども、彼(か)の山は大衆(だいしゆ)強(こは)き所為(た)る間、輙(たやす)くも取り難(がた)し。兼隆は力及ばず止みにけり。北条此れを聞き、娘を勘当せしむ。
十二 藤九郎(とうくらう)盛長夢物語(ゆめものがたり)
 然(さ)る程に、相模国(さがみ/の-くに)の住人、懐嶋(ふところじま)の平(へい)-権守(ごんのかみ)景能(かげよし)〈 大庭権守(ごんのかみ)景宗が男 〉此(こ)の由(よし)を聞き、「右兵衛佐殿、伊豆の御山に忍びて御坐(おはしま)しける。神仏と善人とは宮仕へ申すに空しき事無し。景能(かげよし)参つて一夜なりとも御殿居(おん-とのゐ)仕るべし」とて、伊豆の御山に馳せ上り、藤九郎(とうくらう)盛長と一所に御殿居(おん-とのゐ)仕る処に、其の暁、盛長、夢物語を申して云はく、「右兵衛佐殿、足柄(あしがら)の〓倉(やくら)が嵩(だけ)に居て、南に向かひ、左の足にて東国を踏(フ)み、右の足にて西国を踏み、一品坊(いつぽんばう)昌寛(しやうくわん)〈 観音品計(ばか)りを頼朝に教へし故に、号して一品坊(いつぽんばう)と云ふなり。 〉、琉璃(るり)の瓶子(へいじ)を懐(いだ)き、定綱は金の盞(さかづき)を捧げ、盛長は銀の銚子を取り、佐殿(すけどの)に向かひ奉る。佐殿(すけどの)三献既(すで)に訖(をは)つて後、左右(さう)の袖を以つて月日を懐(いだ)き奉る。又子(ね)の日の松を引き持(も)ち、三本頭に挿し、君は南に向かひて歩ませ御坐(おはしま)す処に、白鳩二羽天より飛び来たつて、君の御髪(み-ぐし)に巣(すく)ひ、三子を生むと見えたり」と云々。
 景能(かげよし)聞きも敢(あ)へず、「藤九郎(とうくらう)が夢合せ、景能(かげよし)仕るべく候ふ。君、足柄(あしがら)の〓倉(やくら)が嵩(だけ)に居り御(おはしま)すと見えたるは、日本国を領知し御(おはしま)すべき表示なり。又酒盛と見えたるは無明(むみやう)の酒なり。其の故は、此(こ)の頃日(ひごろ)、君伊豆国に流され、田舎の塵に交はり御(おはしま)し、万(よろづ)に付けて猥(みだり)がはし。是(こ)れ洒に酔ひたる御心地なれば、疾(と)く酔ふべく御(おはしま)す瑞相なり。左の足にて東国を踏み御(おはしま)すと見えたるは、東より奥州に至つて知食(しろしめ)すべき表相なり。右の足にて西国を踏み御(おはしま)すと見えたるは、貴賀嶋(きかいがしま)を領掌(りやうじやう)有るべしとの先表なり。左右(さう)の袖を以つて月日を懐(いだ)き御(おはしま)すと見えたるは、君武士の大将軍と為(し)て、征夷将軍の宣旨を蒙(かうぶ)り御(おはしま)すべし。太上天皇(だいじやうてんわう)の御護(まも)りと成り給ふ好相なり。子(ね)の日の松三本を引き持(も)ち御(おはしま)すと見えたるは、君久しく日本国を治むべく御(おはしま)す瑞相なり。白鳩二羽飛び来たつて御髪(み-ぐし)の中に巣(すく)ひ、三子を生むと見えたるは、君に御子三人有るべき表示なり。南に向かひて歩みたまふと見えたるは、無明(むみやう)の酒醒めて、君思ふ所無(な)く振舞ひ御(おはしま)すべき表相なり」と、景能(かげよし)、委細に合せたり。右兵衛佐此れを聞いて言ひけるは、「頼朝若(も)し世に在らば、景能(かげよし)・盛長が夢と夢合せの纏東(てんとう)には、国を以つて宛(あ)て給ふべし」と、感歎身に余りて、喜悦したまふこと限り無(な)し。
 然(さ)る程に、北条は然(しか)るべく催されける果報にや、漸(やうや)く心和(やはら)ぎ行き、娘の勘当を赦(ゆる)し畢(をは)んぬ。頼朝夫妻を呼び寄せ奉る。已(すで)に頼朝、伊豆の御山より又北条へ立ち皈(かへ)り、弥(いよいよ)比日(ひごろ)の約(ちぎ)りを結び、殊に芝蘭(しらん)の語らひを臻(イタ)し、漸(やうや)く年月を送る間、一人の女子を設(まう)け給へり。容顔(ようがん)美麗(びれい)にして殆(ほとん)ど吉祥天女(きちじやうてんによ)の如(ごと)し。然(さ)る間、頼朝、流罪の悲しみは夫婦の語らひに止み、孤窶(ころう)の思ひは女子の資(たす)けに宥(なご)む。或(あ)る時、頼朝、小間の酒盛の次(つ)いでに、女子を見て、
 「竹子守山古曾楚多知希礼
   (竹の子はもる山にこそそだちけれ)
左(と)言ひたまひければ、時政取り敢(あ)へず、右(かく)ぞ之(これ)に付けにける。
 「末世満天〓千代経土伝
   (末の世までに千代を経よとて)
此(こ)の連歌は、実(まこと)に頼朝父子共に栄え、北条繁昌すべき奇瑞なりと、此れを聞く人、由(よし)有るべきことと謳謌(おうか)せり。

源平闘諍録 一之上

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