頼らない学び

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多様性≒分断、言いたいことはわかるけど表現としては誤解されやすいと思うんだよなあ。

この世界には相似こそあれど全く同じという状態はあり得ない。それをベースに議論したほうが合意形成は早いと思う。

合意形成とはバランス・中庸そのものでしょ。

バランスの本質をより高い解像度で把握するための素養として学問は役に立つが、学問はそのための唯一の手段ではない。それどころか、無限にある道筋のひとつでしかないんじゃないの。

学問、もっと明確に言うと「問いから学ぶ」。これは教育に非ず。

狭義的な現代教育や現代メディアに混じってしまっている教育的要素は当事者にかかっているバイアスを含めて相手に思想を移植せざるを得なくなると思われているところに問題があって、より広義になれば教師は人間ではあり得ない。

そんな教育を人間の方程式に則って議論している限り、学問発展の自由度は制約され続ける。何故なら学問も同じものが存在し得ない個別化された概念のぶつけ合いであることで価値があるから。教育は妄想だと言いたい。何か違う言葉が必要だ。それを用意して、教育とは別の扱いにしたほうが混同されなくていい。

だいたい教育なんてものを信頼すべき確固たる柱のように扱うから思考停止に至るわけだし、たとえば高齢者の3割が認知症という現実がおもいっきり関係してることは実感されているのに、そこに切り込んだ合意形成はなかなか起きず、綺麗事に集約しようとする流れは大嫌いだなあ。

つくづく大学中退して良かったと思う。自分で物事を考えて、それを客観的にどれだけ精確さを得られるかについて考えたり試行錯誤したりするのが楽しい。答え合わせすら自分ひとりでできる。歪みがあればそれは自己責任でしかない。

こういう楽しさってなかなか伝えるのが難しいけど、そこで共感できたときって最高なんだ。

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