五月雨メモ

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自分が興味を持っている複数の分野がもう少しで繋がりそうだという感覚があります。いろんなことが頭に浮かんでくるので、それを放置したり思考したり、粘土細工のようにこねくり回すことが楽しいというフェーズにまた近づいてきていることを感じます。

「人工知能なんて関係ない」と思っている方は今でも多いと思いますが、「人工知能に仕事をとられる」といったような雇用面での問題を皮切りに、人工知能は単なる情報技術の一分野という枠を超えてきています。

今後はこれが、さらに大きな流れになってきます。それは「人間として生きることの根源」を世界中の人類が突きつけられる。人工知能はわたしたちの経済活動における利便性を提供してくれるだけではなく、政治、文化、社会、哲学、あらゆるところにおいてドラスティックな刺激をもたらします。

単純な話、人工知能にできることが増えれば増えるほどに、「そもそも自分って何だろう」という自分への問いかけを避けられなくなるということです。

  • 人間にしかできないことって何だろう?
  • 機械にできることを人間がやる価値ってなんだろう?
  • 社会の中で人として生きる意味ってなんだろう?
  • 社会なき状況における人としての価値って?
  • 種の存続の先にある到達点って一体どこなんだろう?
  • 選択するってどういうことだろう?
  • 量子の世界 〜 観察していないものは実在しない
  • 超弦理論が伝えること
  • 理論のその先にある世界
  • 意思 〜 観察する・しないの選択
  • 観察におけるバイアス
  • 生存の美と本能
  • 理屈ではない価値の感じ取り方にある理屈
  • なぜわたしたちは感動するのか
  • 理屈は常に後からついてくる
  • 人がつくるモノと、機械がつくるモノの違い
  • 機械に心が芽生えるとき
  • 心ってなんだろう?
  • 意識の証明とクオリア
  • わたしたちは、なにが欲しいのか?
  • わたしたちは、どう生きたいのか?
  • 宇宙はなぜわたしたちを生んだか?
  • 生まれるとはなにか?
  • 生命は個々で本当に分離しているのか?
  • エネルギーというひとつの視点

これらの問いは、わたし自身は自分なりの答えをすべて持っていて、いくらでも議論できるし、議論したいと思っています。残念ながら議論できる相手が身の回りにいないので、ひとりで進めてきているわけです。

まったく異なる分野の発見がつながり、予測不可能な未来を創造していく。個々の技術的特異点に着目していると見えない大きな流れが、フォーカスポイントを変えることでよく見えるようになってきます。

人間は様々な局面で「課題」を「解決」してきましたが、それは生命として生きる上ですべての人に与えられた自由なのだと捉えるようになっています。

課題というものがそもそも、個別視点のもとに局所的に生み出されるバイアスでしかありません。問題のないところに問題があるように見せかける手順という説明のしかたもできます。

複数の個が存在する組織で課題決定をするプロセスで、その前提条件の輪郭構造を健全にコントラストをつけていくことがバイアスゼロでは不可能なのですが、論理に走るとそこで感情フリーでクリーン化が可能であるという誤解をしている人がとても多い。バイアスが存在しないということは、感情の否定になりますから。ところが多くの組織における課題には感情が存在しなければそもそも課題にすらなりえないものしか無いのです。

ですからこれは、課題というものが無価値であるということではなくて、課題のもたせられるトピックと、そうでないものを明確に分類できるようになるチャンスといえるでしょう。

課題の定義に間違いがあることを指摘されないまま解決しようとして何かしら形をつくってしまえば、それは全体構造の複雑化を招くだけで、即物的に言い換えれば、経済的な問題を増やすということになります。どこにも繋がらない無駄な歯車を増やして、それを回すためにエネルギーをより多く必要としているような状態です。

課題ですらないものを課題にすることを避けるためには、的確な現状把握が欠かせないということは皆さんもおわかりのことでしょう。ところが、現状把握が難しいものについてわたしたちは、統計を使ったり、個人的な思い込みに頼ろうとしてしまいます。統計も思い込みも本質的には何の役にも立たない。そこで論理展開はデッドロックします。そこから先の展開ができない人は「二元思考」に陥っている可能性がある。たとえば統計についても、統計の本質を理解した上で、その手法がもつリスクの「意味」を理解して統計を「どこまで信用するか」決められていますか? という問いになります。そして「なぜそのようなリスクが起きるか?」について語るときに、数学的に証明できることだけで話の決着がつかない可能性についてきちんと論理的に話し合いをできないケースが殆どです。

食の世界に変革をもたらそうとした、ITでもそうした、そこに共通するわたし自身の目的につながる部分です。なぜ「お金がなくなる流れ」を観て、その流れを加速する手法について今までいくつものやり方を実践してきたのか。

現代経済を批判したいわけでも否定しているわけでもないのです。二極化した経済の捉え方に嫌気が差しているだけです。かつてTOWNSHIP LABOという形でそれを人に伝えて仲間を作ろうとしましたが、結果的に僕が伝えたいことを最後まで聞いてくれる人は皆無で、みな話の途中で早とちりして「そんなことはもうやってる人がいる」から、さらに話をさせてもらえば「そんなことはできないに決まってる」とか「理解できない」に収束してしまうジレンマに悩まされました。

本を書くというのはひとつの優れた選択肢なんだなと思った頃もありましたが、まてよ、人にそこまでして伝える必要ってあるのかなと思い至り、無理に説明して仲間を集めるよりも、自分で理解しているんだからそれでいいじゃないかという考え方にシフトしましたね。

これが現在の活動指針に大きく影響した、過去の学びの成果のひとつです。

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