美しき緑の星

人と人。意識と意識。境界を相互認識するから個が存在し得る。僕が認識する世界をスナップショットにするとこんな感じだ。

なぜこんな絵を描こうと思ったのかというと、次の本を読んだからだ。

映画の脚本の書籍化。この世界が描くユートピア。「アミ 小さな宇宙人」にも通ずる、貨幣経済をベースとした「常識」から飛び出した世界。

しかし僕はいま、ちょっとした違和感を覚えている。この本の内容は間違いなく素晴らしいが、僕がこの本を知ったきっかけとなった動画でこれは「脱洗脳を促す書籍のひとつ」とされている、この点に違和感があるのだ。この作品は悪くない。著者による前書きと後書きを読んで僕はますますこの人(「赤ちゃんに乾杯!」で有名なコリーヌ・セローさん)のセンスが好きになった。

この作品は素晴らしい。しかしこれは脱洗脳の本ではない。

これは大事なところだと思ったから、こうして書くことにした。

不自由に慣れてしまっている人は、不自由から脱してもまた別の不自由に身を委ねようとしてしまう癖があることを、僕は何度も目にしてきた。

昔から「誰が見ていなくても、お天道様が見てる」という表現がある。

まさにそのとおりで、この世は誰かが認知したものが互いに影響しあってすべてのエネルギーバランスを保つ摂理をもっているので、あらゆる行動の影響はあらゆる必然の反応を生む。誰かが見てるかどうかは関係がない。なぜなら観察されていないことは起きている可能性の呈示にしかならず、起きている状態と起きていない状態の重ね合わせにしかならないから。ではなぜ起きたのかというと、誰にも知られずにやったことでも、誰も見ていないわけではない。あなた自身が観察しているからだ。

こうしたことが意識の壁という幻想のもとで独立して成り立っていると信じ込んでいる人は、自覚なき差別主義者ということになる。

冒頭に掲載した絵は抽象画なのでさまざまな解釈ができるように描いたが、たとえば人と人の関係性をこの絵から見て取って「なるほど、そういうことだよね」と思える人、思えなくても「どういう意図で描いたのか」を作者である僕に質問できる人は限りなく少ない。

世界観というものは固定観念をどれだけ捨て去ってドラスティックに捉え直すかというところで、観察と創造の世界が無限であることを常に実感できる。

説明が長くなってしまったが、僕が具体的にこの本を読む人に伝えたいのは、これを教科書にしてほしくないということだ。教科書は自分で書くべきものであり、それは自分だけのための教科書であるべきだ。共感できるならまだしも、この本を読んで「なるほど」と納得したり、理解していないのにやってみようとすること、これこそがノウハウの継承という行動そのものであり、無理解による行動は自己洗脳行為そのものだ。

どんな作品にもいえることだが、そこに何かを求めてはいけない。求めれば授けられるものはある。しかし得るものはない。この言葉の意味についてわからない人は、自分と対話する時間が足りてないと思う。

まさにこの書籍を紹介していた動画の主もそうで、いままで閉ざされた空間での思考回路をもっていて、それが開けたときから「悟り」のエゴに陥ってる。そういう人がいま世の中にたくさんいる。なぜ、検証せずに広めることができてしまうのか。それは商業広告と何が違うのか。

道端に佇むたんぽぽのような清らかさを失ってしまうと、元の作品に対する冒涜になってしまうことすらあるのだ。もちろん、こうやって出版する以上、あらゆる受け取り方をされることは著者は覚悟の上であろう。しかし作品の解釈上の多様性は大いに結構なれど、作者の人生観そのものを読者が憶測で捏造することは、作者自身との公平な関係性を否定しているように思う。

この映画が、さらなる対話や互いを知る学びのきっかけになることを願います。そして、より公正な社会を目指して、他への思いやりに根ざした生き方ができる世界に向かって、共に行動していけますように。

「美しき緑の星」冒頭、読者へのメッセージより引用

関係性とは、常に流動的で相互的であるから、真実は人の数だけあり、事実はひとつ。