天才についての誤解

天才についてよくある誤解。天才とは「天賦の才能」のことであり、特定の才能を示すために使う言葉です。「誰々は天才」のように、人を天才かそうでないか分類する用法は天才を誤解しています。「天賦の才能を与えられた一部の人が天才と呼ばれ、与えられていない人が凡人である」という用法は間違っているということです。

ある子に何かをやらせたときに驚くような成果を見せたとき「うちの子は天才かもしれない」と思うのは拡大解釈で誤りです。たとえば幼少時から球技の才能を見せたとすれば「うちの子はサッカーの才能があるかもしれない(天から与えられた才能があるかもしれない」と解釈します。

生まれつきの才能はあまり当てになりません。天才をつくるのは飽くなき好奇心。同じ年代の子よりも上手に何かができるからといって、本人がそれに対する好奇心を持っていなければ、成長は望めません。成長のためにはさまざまなハードルを超えていく必要があります。挑むハードルが高ければ高いほど挫折も大きく、そのハードルを乗り越えられるかどうかは、挑戦するそれを好きかどうか(その先にあるものを得ることに好奇心があるかどうか)が肝になります。

凡人と天才に人を種類分けするような捉え方は、差別主義といえるでしょう。

そもそも、天才について研究している時点で、自分の天才をないがしろにした寄り道をしているに過ぎません。

問題は凡人と呼ばれる人でも天才と呼ばれる人でもなく、与えられた課題をその難易度を問わず卒なくこなす秀才といわれているタイプです。天才と秀才の最大の違いは、好奇心を行動力の源泉にしているか、していないかです。

己の好奇心を探求していくことができなければ、人に与えられた課題をこなしていく人生になることは目に見えているでしょう。己で課題をつくり、チャレンジしていく精神がない秀才にとって人生はとても厳しく苦しい場であり続けるのは想像に難くありません。