残りものには福がある話

秋晴れの日が続いてて、ついつい窓際でゆっくり物思いに耽ってしまったり、お昼ごはんを食べるために自転車に乗ったらついつい知らない路地に入り込んで探索を楽しんでいる間にお昼を食べ忘れてたなんてことになってしまったり、そんな季節です。


中延スキップロード

今日も天気がよく、久しぶりに暖かかったので、洗濯機をまわしてから、お昼ごはんのために外出。

最近あんまり食べたいものが思いつかないのは、近所で済ましているせいだ。料理のモチベーションが上がらないのもあるし、ちょっと切り替えるつもりで自転車にまたがった。

そういえば中延商店街にちょっと興味のそそられる立ち食いそば屋があったなぁなんてぼんやり思いながら、なんとなく中延スキップロードに到着して、ずっと行ってみたいと思ってた「カレーの文化」ってお店が目の前にあった。

いまはどこの飲食店もコロナ対策に懸命だ。風評も営業を左右しかねない現代、僕もきちんとマスクして、お店に促されるままに手をアルコール消毒する。

これがコロナウイルス対策になるのかならないのかは、もはや問題ではない。

ここのカレー、おいしい。

ビーフキーマカレーの大盛 @カレーの文化

ゆっくりするような感じじゃなかったので、食後にコーヒーチェリーへ。中延の行きつけの喫茶店はいまのところコーヒーチェリーと隣町珈琲の2店舗。隣町珈琲は今月スキップロードに店舗移転したってWebページに書いてあったけど、場所がみつからないのでコーヒーチェリーへ。

ここのブレンドはおいしい。普通のブレンドとストロングブレンドがあって、どちらも同じ500円。50円追加でLサイズ(30%増量)が選べる。500円払う価値がある。

サードウェーブって日本中にあるこういう個人経営の喫茶店からインスパイアされて生まれたって話を聞いたことがあるけれど、やはりフランチャイズやチェーンの味は個人経営のおいしいお店には逆立ちしても敵わないのです。コーヒーの味だけじゃなくて、店員さんの対応とか、店内の雰囲気とか、愛情とか、すべて含めて「味」なのです。

サードウェーブといえば、最近は猿田彦珈琲が結構な勢いで店舗拡大しています。猿田彦珈琲は創業者の大塚さんが恵比寿の7坪のお店からスタートしたお店。残念だけど今はスタバやタリーズの味と差別化できてないというのが個人的な感想です。最終的には淹れる人で決まるんだから、そりゃそうだよな。

旗の台

さて、ここからが本題です。

自宅に向かって自転車を適当に走らせていたら、旗の台に来ました。

僕がたいへんお世話になった大学病院の城下町みたいになっちゃってる旗の台です。

ここでぼやっと景色を見てたら、当時のいろんなことが蘇ってきて、突然胸がいっぱいになってしまったのです。涙で滲んで前が見えない。

昭和大学病院と、昭和大学病院付属東病院は、中原街道を挟んで両側にあります。

入院当時、毎日いろんな検査があって、本院と東病院を行き来することが何度もありました。

歩けばすぐの距離なんですが、歩行許可をもらっていなかったので、本院の地下まで車椅子で運ばれて、そこから専用のマイクロバスに車椅子のまま入れられて、バスが東病院の地下駐車場に到着したらそこからまた車椅子を押されて検査。

バスで移動するほんの短い時間ですが、外の世界を窓越しに見ることができました。

コンビニの前でたむろするサラリーマン。自転車に子供をのせて移動するお母さん。携帯電話で話をしながら歩く若者。休憩時間の病院スタッフの方。杖をついて歩くおじいさん。

なんてことはない光景です。

でも僕は、うまく言葉にできないんですが、感極まっていたのです。

いま目の前に生きている人たちの時間。この時間を僕は生きて目の当たりにすることがなかったかもしれないのです。

もっと率直に書きます。

死んで見るはずじゃなかった日常の光景を、見ている。

僕の死後も何事もなく続いていくこの世界の光景を、僕はまだ生きて見ている。

あのお兄さんも、あのおじさんも、あのお姉さんも、僕は見ることなく死ぬところだった。いまこうして皆が生きて動いて世の中が回っているところを目の当たりにすることが、この瞬間そのものが、奇跡でしかなかった。

退院してからもずっと、その思いが消えることはありません。

「死んだはずの時間を生きてる」

このブログで何度も書いてますし、親しい人には何度も話していると思いますが、「昨日が人生最後の日」という感覚です。

これこそが、究極の安心感をもたらす物事の捉え方なんです。

不安とはなにか

不安とはなにか。まず間違いないのは、不安と未来は関連性があるということです。過去に対して不安を覚える人はいません。現在目の前に起きていることに不安を覚えることもありません。

なぜ不安になるかというと、未来が不確定だからです。

もっと詳しく言うと、自分が望まない未来を手にしてしまう可能性を考えるから、不安になるのです。

あなたの不安についてよく考えてみてください。そうでしょう?

過去の経験が未来の不安を助長したり軽減したりすることもありますが、不安の大元は「未来」です。

「昨日死ぬはずだった人生」の捉え方は、未来に期待もなにもしません。なぜなら、この捉え方をしていると、今日生きてることが本来ありえなかったことで、今この瞬間生きてることが、ボーナスだからです。

未来への期待がないと、生きてる意味あるの? と思うかもしれませんが、あります。めちゃめちゃあります。

「期待」と「希望」の違いについて、理解します。

期待というものが、いかに自分のエゴが入っているものかどうかは、その求めている未来が実現しないことを仮定してみたり、求めているものと違う結末になる未来を仮定したときに、不安になるかどうかでわかります。

生きている限りは好きなことをしよう、という開き直りがあると、たいていのことは、うまくいってしまいます。それが、エゴからの脱却の基本だなと、僕は入院を経てうまくこれを言語化することができました。

ともかく今日、自転車でまたあの病院の近くを通ったときに、じわじわとまた生きていることへの喜びがあふれてきて、胸がいっぱいになってしまったのです。

それだけの話なんですけどね。

生きてることが、残りもの

いま生きているということそのものが、奇跡であると僕は感じながら生きています。

生きることが当然のことではなく、棚からぼた餅を得たかのような残りものなのです。

そこには福がたくさん詰まっているなあ、と思います。