疑わないこと

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「疑わない人」って2つのタイプに分かれると思うんです。

ひとつは、単純に疑うことを知らない人。こういう人に出会うと純粋さに心打たれるのと同時に、神聖なものに触れたような感覚になって、嬉しいような、高嶺の花に憧れるような心持ちになります。

もうひとつのタイプは、あらゆることに対してとことん疑った末に、疑う必要のないことを疑わなくなった人。僕はこちらのタイプです。

生まれつき疑うタイプの人はいません。なぜ疑念を持ち始めるのかというと、騙される(裏切られる)という経験をするからです。では、裏切られるとは一体どういうことでしょうか。

結論から書くと、騙しというものは他人ではなく自分の受け止め方です。いくつか例をあげてみましょう。カメレオンなど一部の動物は外的を騙すために擬態をとります。景色に溶け込んでいるカメレオンを見つけられないということは、騙されているということになりますが、それはカメレオンが騙すことに成功したという捉え方ではなくて、あなたの脳が騙されただけです。もちろん騙されずにカメレオンを発見できる人もいます。

騙されて腹を立てる人がいますが、それはプライドを傷つけられたからです。騙されるはずがないという自分自身への過信が裏切られたこと。自分の弱点が露呈したことに対する恥の感情が、騙した相手への怒りや恨みへと繋がっていきます。

「よくも騙したな」と負の感情を伴う受け止め方をする人もいれば、「騙されちゃった、君すごいねアハハ」と負の感情を持たない人もいます。

「もう二度と騙されないぞ」という意思決定こそが、疑いの原点になります。

それでも人は騙されます。騙そうとする人が多い環境に身を置けばなおさらです。信じても騙され、疑っても騙され、そんなことを繰り返し経験していくと、相手が言っていることが真実なのか虚偽なのか、わからなくなってきます。

こうなってくると、いままで疑いを持たなかった相手に対しても疑念が芽生えてきます。疑心暗鬼になり、誰を、何を信じていいのかわからなくなります。

「騙されたくない」という前提を変えずして、疑心暗鬼を脱出することは困難だと思います。僕は無理でした。

「騙されてもいいや」と開き直ることで、だんだんと理解できてくることがあります。

それは、「騙されることは悪いことではない」ということです。

自分がバカだと言われることに何かしらの負の感情を持つ反応を持っている人は、騙されることが嫌いです。

しかし本当に頭が良いのはどちらでしょうか。騙されないようにさまざまな対策を立てている人? それとも騙されないために頭を使うことをやめて別のことに頭を使う人?

疑うことに意味がないということに目覚めはじめると、次に「この人は信用できる」「この人は信用できない」という、信用を属人化させた捉え方に対して疑問を持つようになってきます。

誰でも嘘はつきます。嘘をつくのが悪人で嘘をつかないのが善人というのも思い込みです。嘘がない人間はいませんし、もし仮にいたとしたら僕はそんな人をむしろ信用できないと思います。

信用は人に対してではなく、対象の物事に対して持つべきものです。

「この話は信用できる」かどうかです。

オオカミ少年の有名な話があります。日頃から嘘ばかりついていた少年が珍しく本当のことを言ったとき、誰にも信じてもらえなかったという話です。これを「信じてもらえなくて当然」と切り捨てるのはちょっともったいないです。このお話の中で少年は「オオカミが来たぞ」と本当のことを言ったのに村人に信じてもらえなかった。嘘つき少年の本当の話を信用せずに損をしたのは少年ではなく村人です。村人たちはオオカミに食べられてしまったのですから。

嘘つきのレッテルを貼られている人だって本当のことを言いますし、正直者のレッテルを貼られている人が嘘をつくことだってあるのです。

そのため、疑うことにはきちんと根拠をもたせる必要があるわけです。頭ごなしに信じるのも根拠が必要だし、疑うのにも根拠が必要です。根拠が足りないと感じたときには直観という強い味方があります。直観から得るものは100%あとから説明がつくものですので、もし直観があるのであれば、それを信じればよいのです。

(直観とはなにか、直観からどのように情報を得るか、直観がなぜ100%信頼できると言い切れるのかについてはまた別の機会にきちんと説明したいと思っています)

根拠というものには他者からみた信憑性の評価は不要です。要は自分がそれを信じられるかどうかの根拠になるのであれば、それが論理的でなくても筋が通っていなくてもいいということです。人は信じたいものを信じればいいのです。

冒頭に書いた2つのタイプの「疑わない人」を言い換えると次のようになります。

  • タイプA: 聞いた話をなんでも信じる人
  • タイプB: 信じるでも疑うでもなく話を聞ける人

タイプBをプログラムに例えると、resultという変数にまだ何も代入していない状態と説明することもできます。この捉え方は多元的で極めて量子論的でもあります。光が物質と波の両方の性質を持っていることと類似性があります。物事は観察効果によって多次元的な波が物質という三次元的に閉じた状態となって我々に感じ取れる状態として位置エネルギーや質量などを獲得します。

疑うでも疑わないでもない状態というものは、疑うことをまったくしない無垢である人にも見られます。または紆余曲折の末に「疑うでも疑わないでもない」を獲得した(回帰したとも言える)人にも見られます。

「騙される」という概念に縛られるからこそ、騙されることへの恐怖があるように思えて仕方がありません。騙されることってそんなに怖いでしょうか。状況にもよるとは思いますが、騙されることに対する恐怖の強さの度合いというものについて語ろうとすれば、次にお話をしなければいけないのは「命をどう捉えているか」ということになります。長くなるのでこれはまた今度。

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