5歳の頃、母の自転車の後ろに乗せられて近所の商店街まで買い物に行きました。台風が近づいている風の強い日でした。
母親の後ろについて魚屋さんや肉屋さんを巡り、八百屋さんに着いたところで、母が言いました。
「イチゴ食べる?」
わたしは大喜びで食べると答えました。わたしはイチゴが大好きで、想定外のラッキーなことに有頂天になりました。当時の我が家は父が事業を起こしたばかりということもあり、節約の日々でした。そんな事情を知らない幼き日のわたしでも、家計が苦しい中、イチゴを買ってくれるという親の優しさに感動したのを覚えています。
八百屋さんを後にして、母が言いました。
「好きな漫画、一冊買ってあげるよ」
なんと、イチゴだけでなく漫画まで! こんなにいい思いをしていいのだろうか! 少し後ろめたくなるくらい、夢のような話でした。
八百屋の隣にある小さな書店に入り、わたしはどの漫画を買ってもらおうか散々迷いました。そして手にしたのは、ドラえもんの6巻でした。
会計を済ませ、ワクワクしながら店を出ました。
すると目の前に、母の自転車がありました。
強風で倒れています。
カゴに入っていたものが、あちこちに散乱してました。
そして、イチゴは……
車道に転がり出ており、行き交う自動車に、無残に踏み潰されていました。
呆然と眺めている目の前でも、タクシーやトラックや自家用車が、次々とイチゴを踏み潰していきます。
わたしはこの記憶をずっと忘れられませんでした。
時は流れ、30代の頃、とても悲しい出来事がありました。
その日の夜、夢を見ました。
なんと、幼少時のあのイチゴ事件の続きでした。
続きはすっかり、記憶から抜け落ちていたのです。
踏み潰されたイチゴを見ながら、5歳のわたしは、イチゴが食べられなかった悲しみではなく、なんとも説明のつかない感情でいっぱいになっていました。
食べられないまま無駄に潰れてしまったイチゴの無念。
イチゴを買ってくれた母の気持ち。
イチゴを売ってくれた元気な八百屋のおじさん。
イチゴを八百屋まで運んでくれた誰か。
イチゴを育ててくれた農家さん。
わたしはその全ての想いに応えることができなかった。漫画に有頂天になり、己のことしか考えてなかった間に、わたしは数多くの想いを踏みにじってしまった。
イチゴが車に潰されている光景は、わたし自身に訴えかけてきました。
それで耐えられなくなり、泣くしかありませんでした。
涙で滲んだ目で、自分の両手を見つめました。
こんなに悲しいことが起きない世の中にしたい。お母さんや八百屋さんやトラックの運転手さんや農家さん達の思いが踏み躙られることのない、みんなが笑顔で生きていける世の中を作りたい。
なのに僕の手は、こんなに小さい。
まだ何も知らない子供だ。
そんな世の中を作るどころか、自分一人で生きていくこともできない。
わたしはこれから先の長い長い人生で、想像もできないほど数多くのことを学ばなければ、この想いは叶わないと感じていました。
5歳のわたしの手は、あまりにも小さすぎた。
わたしは今、あの時感じたものを大切にしています。
自分のために生きるのではない。世の中のために生きたい。
それがまた難しくて、理解されないし、他人を助けるためには自分も大切にしなければならない。
今でもすっ転んだり失敗したりしながら、それでもいつか、あのイチゴにきちんと向き合える日を願って、日々生きております。
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