企業を所有するということについて、所有の概念まで遡って考えてみた。考えることができたかどうかはともかく、そうしようとした。
そしてひとつの答えを得た。湧き出るように得た。企業とは法人格を有した存在で、その意思決定は所有者に委ねられる存在だ。それはおそらくグローバルに通用する常識であると同時に、経営の本質でもある。
従って、今わたしは他の企業と対等に渡り合える資格を有している。これは独立という試練を乗り越えたものにしか与えられない概念であると同時に、真の独立を果たしたもの同士だけに通用するプロトコルを使用する権利を勝ち取ったということでもある。
わたしは不均衡を破るきっかけを得たのだ。力を得るということは、その力を認識するということに他ならない。事実は単純であり、それを説明する言葉もまた単純なのだ。
わたしは大きく考えることにした。そうして初めて、大きく考えることを抑制しようとしてきた己の殻があったことに思い至った。「気付くのではなく氣付くのである」という師匠の言葉の意味がここでまた昇華した。
必要なものはすべて、すでに手の中にある。この単純な仕組みの本質を体得するまでの道のりを思い返せば、理解を阻害していた大きな要因はただひとつ、『欲求』であったことがわかる。欲求とは、不足しているという認識そのものである。それを真実と捉えるか誤認識と捉えるかは、主観の問題でしかない。
わたしはこれから半年の期間に大きな飛躍を己に課した。それは、巣箱から飛び立つ期限を自ら決めた雛鳥のようなものかもしれない。しかし雛鳥は生きている限り育つし、生きている限り羽ばたく日が訪れる。そこに余計な努力も詮索もなく、摂理として。
年初から残り香のように纏わりついていた暗い霧のようなものが消えた。今また、遠くまで見渡せるようになったのだ。自分を取り戻したのだ。自分を見失わせるのは常に自分である。またひとつ大切な学びを得た。
人から学んだことは、人に返礼する。大地から学んだことは、大地に返礼するように。相手の尊厳を可能な限り礼することは、今まで破られたことのないわたしの流儀だ。相手が望んでいることを与えようとしてそれを受け取らないときは、相手の望む何かをわたしに期待していないということ。望むよう仕向けることは無意味であり、それを叶えるために遠回りでも為すことが結果を導き、やがてそれが誰の為したことであるかは消え去り、為した結果だけが相手に届く。これが善意であり、礼であり、尊重である。わたしの流儀だ。
甘えは他人が批判することではない。本人が手放すべきものだ。なぜならそれは必ず不義や不幸を生むからだ。それを受け入れてしまうのは簡単なことだが、とても大切なものを見失うという副作用がある。なのでわたしは甘えを許すが決して受け入れない。そもそもわたしには他人の甘えを許すとか許さないとかそんな神のような決定権はないのだ。
新たな星々が心の夜空を照らし始めた。満点の夜空でわたしはそれらの星と星を繋ぎ、星座を描く。楽しい。わたしはわたしが喜んでいることを感じて、幸せだ。
望むものはすでに手にしている。
それを現実に描いていくだけで、輪郭を露にするのがわたしの使命であり、それを一人でも多くのいのちと分かち合うことが、わたしがいま生きている理由なのだ。わたしは世界を笑顔でいっぱいにしたい。
奇蹟は存在するということを示そう。
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