生死の境界

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またひとつ巨星が堕ちた。

JENSという会社は、現代の情報化社会に欠かせないインターネットの黎明期を日本で支えた。
そこに20代で入った僕にとって、周囲には憧れの存在がたくさんいた。
技術が好きで好きで仕方がない、スペシャルな人が。

JENS(AT&T Jens)は総勢200名ちょっとの小さな会社だったが、JPNIC(日本ネットワークインフォメーションセンター)のインターネット歴史年表にも名を残している。業界内の激動にのまれ、いまそのDNAを受け継ぐものは業界内外に分散し、各方面で活躍している方ばかりだ。

JENS出身者の訃報は、今回で2人目だ。

ふたりとも、今でも笑顔がありありと浮かんでくる。

訃報を受けて。

しばらくの間、物思いに耽っていた。

こんな無茶ばっかやってきた僕がギリギリ生き延びて、

世の中にとって価値ある存在が次々と先に死んでいく。

ましてや今回は、かつての僕が憧れてやまなかった、輝かしき先輩だ。

「生きて、お前は一体この世に何を残そうとしているのか」

そんなことをぼんやりと思い、

窓越しに空を見上げれば

太陽は燦々と世界を照らし続けている。

何事もなかったかのように。

しかしあの太陽の表面では、

毎秒何万トンもの原子が核融合反応し、

膨大な量のエネルギーを生成している。

答えはない。

でも手元にないだけだ。

物事は摂理に背かない。

生き延びていることには、必ず理由がある。

僕たちはもう無理のきかない年齢に入っている。

僕は何度か死の危機をかいくぐり、なぜか今も生きている。

一方で、死にゆく人たちもいる。

僕はなぜ生き延びているのか?

具体的な答えはなにもわからない。しかし胸に手を当てて自分の内なる存在に問うてみると、その答えはもう自分の中にある。

自分だけのために生きる人生はとうの昔に終えてしまっている。
いま僕がこの世に命を与えられ続けているのは、使命があるからだ。
その使命のためならば、神は僕に命もエネルギーも惜しまず与えてくださる。

僕が使命から逃げようとすればおそらく、その瞬間に天から雷が落ちるがごとく一瞬にして、僕の命は本来あるべき姿として、土に帰すだろう。

それだけは、なんとなくわかるのだ。

しかしそれは交換条件として突きつけられているわけでもなければ、束縛されているわけでもない。
なぜならその使命とは、ここでの明言は避けるが、僕が魂の底から望んでいるものだから。

僕にはまだこの世で受けとるものがある、と神は言った。

果たしてそれが、次々と死にゆく優れた生命たちを差し置いてでも生きて全うする価値のあるものであるかどうか、僕にはそれを評価したり判断したりする能力はない。

しかし必ずそれに値するものであるはずだ。そうでなければ僕はいま生きていない。

生きる希望を失ったら、その先に進むしかないのだ。


遠藤さん。

内村のおっちゃん。

印南さん。

あなたたちは、その生命をもってして、なにを築きたかったのだろう?
何を願っていたのだろう?
それはうまくできたのだろうか?
それとも、遺志を継ぐ者に巡り会えたのだろうか?

僕は生きている。

僕はできる限りのことはやるよ。

それが生きとし生けるもの、死んでいったもの、これから生まれくるものたち、皆の願いだと信じて。

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