にゃーちゃんの介護・いのちの価値

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動物介護を通じて
介護について色々と考えさせられてる。

医療の発達した現代において
死なせないための手段が数多く用意されている。
つまり医療のなかった時代だったら
とうに死んでいるはずの状態でも
生かし続けることができてしまう。

それは犬猫でも同じで、
いまや猫でもMRI、CT、エコーなど最新の医療機器で高度な診断ができるし、様々な手術に対応している。動物病院も町医者的なところもあれば、高級な設備を整えた総合病院的なところもあり、さらにその上には大学病院という選択肢すらある。

猫の場合、CTなら約5万円、MRIなら10万円を超える。ヘルニアの手術や入院費を含めると50万円はかかる見込みだ。

以前飼ってた犬の腰が悪くなった時に日大獣医学部でMRIを受けさせたことがあるが、15万円かかった。全身麻酔で何があっても受け入れる旨の承諾書にもサインした。診断は確定することができたが、治療はできなかった。

以前飼ってた猫が骨盤を骨折した際は、散々迷った挙句に手術を受けさせる決断をした、しかし手術中に動脈を傷つけてしまって失血してしまい、術後に再会した時には花束に包まれて冷たくなっていた。

にゃーちゃんは今、下半身麻痺している。
歩けないのはともかく、自力で排泄ができないのだ。

膀胱圧迫による強制排尿、マッサージによる排便促進、それでもダメなら獣医さんに駆け込んでカテーテルで出してもらう。

便はともかく、尿は2日も出なければ膀胱は一杯になり、硬式野球のボールみたいに硬くなる。こうなると圧迫排尿はできない。

人間と違って犬や猫は言葉を話せない。
すべては飼い主の意思で決まってしまう。

飼い主として、このまま継続していくべきなのか、他に取れる手段はないのか、葛藤しながら毎日の世話をする。

人間と違って、他人の力を頼るには少なからぬお金がかかるし、それもあって本当に人任せにしてまで生かすことに意味があるのか自問自答して、結果、自分一人でやれるところまでやるという結論に至る。

いのちの尊厳。
僕は死線を超えてから、死を強く感じた。
死とは、それを迎える覚悟ができているかどうかという問題ではなく、必ずそこに至る避けられないものだ。
死は生の一部である。

にゃーちゃんも無理な延命など望んでいるとは思えない。望む・望まないなどという判断基準はそもそもない。

発症してから最初の1週間はとても辛かった。
でも今は覚悟が決まってる。
今日も生きてる、それが貴重なことだ。

でも中庸の域を超えてまで明日生きることを願うのは、執着そのものだと思う。

いまこの瞬間をフルで享受できていれば、物事はたいてい、幸せに流れる。

諦念と希望の両立。

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