Recognition

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幸せを見失わない方法。

いまの日本は、いや世界は、幸せを感じ取ることが難しい社会構造になりつつある。

それは資本主義経済がかつてマルクスが指摘した通り順当に自由経済から支配経済に変化したことや、さまざまな洗脳への疑問を持つことへの困難さを作り出す大人の身勝手で許されざる理論だとか、経済活動とエゴの見分けがつかない無教養な者が拡声器を手に入れてしまったこととか、課題提示から解決策提示までのプロセスに汚染があることとか、人と人が真の対等性を手に入れるために必要な基本として対等性とは何かについて議論する場が見当たらなくなってしまったこととか、世代間の対話が核家族化の極みによって消失したこととか、多忙に対する寛容が常識化したとか、様々な要因がある。

しかしどんなに社会が乱れようと、幸せの総量とは関係がない。その事実を知らない者は、幸せだと思い込んでいるそれがただの煩悩、エス、エゴ、我欲という未発達の幼児じみた発想のもとに成り立つ美しくない何かであるのだ。

幸せは常にどこにでも無限にある。

それを見つけるためには、己の外の世界を知り、己の内面を深く知る必要がある。どちらも必要なのだ。

満たされない者は餓鬼や亡者と変わらない。死んだ魚の目をした腐敗臭のする者たちがこの東京には無数にいる。僕はそんな連中を眺めながら、彼らに救いをもたらすことの意義と、そんなことを考えることのおこがましさの狭間で揺れる。

目の死んだ者と僕は称するが、実際に目の輝きだけの話ではないらしい。「らしい」と書く理由は、僕には目の輝きによって見分けていると感じていることなのだが、それについて誰かと話をするとほとんど理解してもらえない。多くの人には僕のいう目の輝きの違いがわからないそうだ。昔はそれについて「なんで見えないの?」としか思ってなかったが、逆転の発想をすると、僕が目の輝きと称している者は、何か別のものを共感覚によって目の輝きとして認識しているだけで、実際には別のものを捉えているのかもしれないということに思い至った。

色眼鏡をかければその色は見えなくなる。目の輝きを見分けられない人たちは、色眼鏡をかけていることを認識もしていないし、指摘すればしたで指摘した方からの逆恨みや絶望を励起しかねないので、なかなかにセンシティブなことなのだ。「人はなぜ色眼鏡をかけるのか」と同期を想像すれば、センシティブであるのも当然のことである。

オリンピック・パラリンピックのことを一大イベントだと思い込んでいることがすでに差別であることを理解している人はなかなかいない。オリンピックと子供の運動会を比較してみたらわかるだろうか。価値はここの捉え方によって生じるだけであり、万人共通の価値など存在しない。このようにして、単なる事象であったり、単なるプロジェクトのひとつでしかないものが、そこに関わる利害の寡多と、それそのものの価値を連動させてしまうことに疑問を抱かない教育を知らずのうちに受けてしまい、洗脳から解放されていない方々。

競うことになんの問題があるのか分かってない方々。ライバルは常に己自身であるといいながら、金メダルを受賞して満面の笑みを浮かべる選手。他者に認められるために何かをすることは不毛でしかない。全ての行動の理由は己であり、己のためなのだ。他者のために何かをしたいと願うことも、それ自体が己の願いであることを忘れてしまっては、プライドばかりが育ってしまい、人としての道を踏み外す。

わたしは原点の話をしているのではなく、本質を通じて道理の話をしたいと思っているだけ。

幸せは常に存在している。そして幸せになりたいと願えば願うほど幸せは遠く離れてゆく。幸せであると認識すること。しあわせの源泉は常に繊細な感受性の中にある。

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