【信念】根拠なき確信の力(The power of unfounded conviction)

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当サイトでは長年様々な形でお伝えしてきたが、信念というものについて少し掘り下げて書いてみようと思う。

信念を通すということは、神頼みでもなければオカルトでもない。

世の中は苦しみと楽しみがまるでミルフィーユのように層になっている。苦しさの層と楽しさの層のどちらにフォーカスを当てて日々の活動をしているかによって、信念という言葉の肌感はかなり異なってくる。

信念とのうまい付き合い方は、まず一番にそれを無視しないことである。楽しいことに向かうことや、楽に構えることというのは、これから起きるであろう様々なことに対してある種の開き直りのような覚悟を決めることと通ずる。一方で楽に構えるということは、リラックスして能力を最大限に引き出すことや、目標を効果的に達成するためになるべく無理のない現実的なやり方を選択することや、これから作り出すものがどれだけ自分の役に立つかということに通ずる。

すでに手に入れたものや環境に依存することは「怠け」であり、「楽をする」とは異なる。「怠」という感じは、心の上に台が乗っかってしまっている。さて、心当たりはあるだろうか。わたしは「怠」を繰り返しているが、それを認識した瞬間にその状況を自分で受け入れられないから、行動する。ここで行動しないで別のことをして念が逃げることこそが、「信念を無視する」なのだ。

たとえば自分が求めている何かがあった時、多くの人はそれを達成するために必要なことをなんとなくイメージして、それが想像できなければそこで無意識に目標そのものの下方修正をしてハードルを下げてしまう。自分の成長ファクターを考慮に含めていないのだ。それも初めは無理のないことだ。自分自身の成長を根拠もなく信じて次の目標や次の一手を決めるのは、手堅さとはかけ離れて見えるからだ。

しかし信じて任せることをしなければ人は成長しない。そしてその言葉は自分自身にも適用される。自分を最後まで信じてあげられる人は自分しかいない。

自信をなくすということは、人間にとってどれほどの大きな機会損失であろうか。とてつもない。しかし世の中では他人の自信をへし折ろうとするような醜い光景があちこちで見られる。

自信をへし折る直接的行為の多くは言葉のナイフによるものだ。それは物理的な暴力でもなければ金などの数値で現れるものでもないし、刑法では保護されていないからこそ、あちこちで起きる。法で定義されていないことは全てやっていいことなのか?

信念というものは、根拠なき確信のことである。それは理屈を捏ね回して生まれることはない。

「信じることが大事」と言って仕舞えばシンプルだが、シンプルゆえに誤解も多い。

「これをやったからあれが実現できるだろう」というのは信念ではなく、予測である。

信念に根拠があるとそれだけで弱くなる。

そして根拠がない方がよほど簡単なのだが、理由をつけないと信じられない人がたくさんいる。わたしもかつてそのひとりだった。

理由は後からついてくる。

根拠なく確信するということが一体どれだけの効果を生むのかというと、信じたものは現実化するプロセスを体験して初めてそれがわかる。

そしてさらに、信念と頑固さの違いも感じていただければと思う。

信念を持つために必要なことは、頭を外すことだ。そしてこれは誰にでもできることなのだ。

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