対等

この記事は約6分で読めます。

昨日、荒川の友人たちが遊びに来てくれた。久しぶりに人のために料理したくなったので、ミートソーススパゲッティを作ってみんなで食べた。

友人1

まずは、ひとりめの友人について。来てくれた友人たちの中ではいちばん最近知り合った人だ。

10年以上の長い間引きこもっていて、最近外に出られるようになったという友人も来てくれた。人と一緒にごはんを食べるのが苦手と言ってて、キューブカフェでも別の部屋で食べてくれたのだけれど、昨日はみんなと一緒に食べてくれたのが嬉しかった。

みんなしっかり考えて生きてるのがわかる。何が人生を足止めしているのかというと、前に踏み出す勇気。勇気が出せないとき、友人は助けてくれる。友人は、勇気を後押しするためにも存在する。もちろんそれだけではない。友人は、自分の代わりに何かしてくれることはない。代わりにやってあげても本人のためにはならないからね。背中をそっと後押ししてあげたり、見えない視点を見せてくれたりするのが友人だ。僕もそんな友人の1人として友人たちの人生のささやかな応援者でありたい。

人にはそれぞれ個性があり、課題もみんな異なる。だから、集団でまとまって見るのではなく、ひとりひとりと向き合うことに意味がある。

友人2

昨日来てくれた別の友人に、僕が感じていることを伝えた。僕は相手の潜在意識を反射する鏡の特性を持つことができる(誰でも多少なりとも無意識に、あるいは意識的にやってることだけどね)。だから、必ずしも本人の意識と対話しているとは限らない。

その伝えたことは何かと言うと、プライベートゾーンを守ることだ。友人は僕のメッセージを受け止めてくれて、考えて、最終的にそのメッセージは間違っていると判断していたし、それをきちんと伝えてくれた。僕がそれを聞いて感じたことは、まだ伝えたいことが意識レベルで伝わってないなと言う感覚。問題や課題というものは、意識下に降りてきているのならば本人が問題意識を持つ。それが人間だ。そして人はそれを解決しようと立ち向かったり逃げようとしたりする。しかし意識にその課題が降りてきていないとき、信頼関係がとても重要だ。自分には見えていないものを見ている周りの人を、どこまで信じることができるかだ。

何か伝えてもらったとき、「え、全くそんなふうに自分のこと感じたことないけど」と感じるのは皆同じだ。

そのあと、「この人は自分のことをよく知らないからそういうことを言っている」と判断するのか「自分には見えていないものを客観的に伝えようとしてくれている」と判断するのかによって、後々行動に大きな違いが出る。

相手が意識的であれ無意識であれ他人をコントロールしようとする癖のある人の場合、素直に受け止めるとまずいことになる。なぜなら相手は自分をコントロールしやすくするために意図的に真実と虚構を混ぜて、言葉を巧みに使うからだ。

相手が誠実に自分のことを見てくれているハートの繋がった相手の場合、それはきちんと向き合うべきだ。相手は勇気を出して真実を伝えようとしてくれている。真実の数は命の数だけある。その友人から見た真実に耳を傾けることは、友人に対する礼節であると同時に、自分に対する礼節なのだ。自分も相手も、蔑ろにしたくない。だからこそ、たとえ言われたことが意味不明でも、納得できなくても、向き合うのだ。意味不明なら、わかるまで詳しく聞いてみれば良いし、納得できないなら、なぜ納得できないのかを伝えた上で、なぜ友人がそう思ったのかを聞けば良い。これが対等性の上に成り立つ友人関係だ。

では、相手が誠実であなたと対等な関係を持ちたいと思っているのか、それともあなたを利用したりコントロールしたいと思っているのか、それを見分けるためにはどうすればよいのか?

それを感じ取るために感性がある。あなたはその人を好きと感じるのか、その好きには条件がついているのか。その条件は果たして本当に相手の問題なのか、それとも自分の色眼鏡なのか。

それを知るためには、相手をもっと深く知る必要がある。相手を深く知るためには、会うたびに同じような話をしても意味がない。深く掘り下げた話をするためのきっかけは、自分が自分をさらけ出すことだ。自分が心開かずして、相手が心を開いてくれるはずがないし、そんなことがあったらそれは対等性の崩壊である。言い方を換えると、対話のマウントを取ってしまうのだ。

友人3

僕はこの3人目の友人が、とても健全でバランスの取れた考え方を持っていると以前から感じていた。自分の意見もしっかりと言える。他人と違う意見でも怖気付くことがない。なのにどうして前に進めないでいるのかが、ずっと謎だったし、知りたいと思っていた。

昨日それが少しわかった。この友人はもう、背中を押すだけでよい。仲間に依存もしていない。むしろ逆である。まだ独り立ちできていない友人たちに対する優しさが故に、みんなのことを深く想い、考えて、自分よりも仲間のことを考えて、飛び立てずにいると感じた。

人は皆、いつか巣立つ。鳥など、他の生き物と同じだ。飛び立ったからといって、関係性に変化はあれど、関係が無くなることはない。いや、無くなることもあるが、巣立ちによって無くなる関係性は対等な関係性ではなかったというだけのことだ。真の友人は、自分がどんな変化をしようと、しっかりと見てくれている。会えようと会えまいと、きちんと自分のことを近くから・遠くから見てくれている。そして再会すべき縁があれば必ず再会する。

友人4

2年前に目黒区のカフェで知り合って以来、様々な深い対話をしてきた相手である。様々な困難に挫けない強さを持つし、視野も広い。

僕はこの友人が可能性を爆発させない理由について思いを馳せることがある。個として生きていくための自信はかなり強くなっているのが見ていて嬉しい。確証のない未来の大きなことに対峙した時に、そこに立ち向かえる勇気を持てれば、花開くと思っている。立ち向かう勇気と、清水から飛び降りる勇気は、似て非なるものだ。前者は自分らしくあることで、後者は自分らしさを無視している。

この友人にはとても厳しい伝え方をすることが多い。なぜなら強いとわかっているから。僕がどんなにきつい伝え方をしようと頑張っても、実際の人生の方がそれよりも遥かに厳しい課題を突きつけてくるということを理解していると、他人に言われた厳しいことで感情的になることは無くなる。この友人はおそらくそれを理解してくれたから、僕が遠回しではなくストレートに感じたことを伝えることを受け入れてくれているのだ。

友人とはなにか

友人、友達、いろんな言い方があるけど、フレンドの定義は人によって実に様々だ。

僕に取って友人の定義は広いのだと思う。出会ったばかりの人でも、出会いは縁がなければ起きないので友人だと思うし、何らかの理由で道を分かつ相手のことも僕は心の中で友人だと思い続けている。

僕は人を嫌いになることができない。

人のやることに意見することはある。それで相手に嫌われることもある。伝えたいことがうまく伝えられなかったとき、常に相手から去っていくだけ。

去る者は追わず、来たるものは拒まず。

これは孟子の言葉だ。昔の中国では性善説と性悪説が議論してた。僕はそのどちらでもない。善とか悪とか、そんな判断基準を超えたフラットでバランスの取れたところに僕にとっての真実がある。

自然体、自由。

僕はそうしてきたし、これからもそうしていくだけ。

誰も僕をコントロールできないし、僕が誰かをコントロールしようとすることもない。

そう思えないのだとしたら、真意が伝えきれてないだけなのだ。

この人は友人、あの人は友人ではない、などという言葉遊びは無意味だ。

友人という言葉が薄れていくのは、こういうことなのだ。

コメント