神の采配

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今朝からずっと、純粋性(purity)、感受性(empathy)、圧力(stress)の関係性について考えてる。

きっかけは、我が家の猫、にゃーちゃんを撫でること。

彼は全く同じ撫で方をしていても、撫でている人が心から彼に集中して愛情を送り込もうとしているのか、そうでないのかを敏感に感じ取る。

実際、猫に限らずあらゆる生き物はそれを感じ取ることが、実験してみるとわかる。

街を歩いていて出会う動物。野良猫、散歩中の犬、電線の上のカラスや雀、駅前の広場にいる鳩。さらには身近な虫。蜘蛛、蛾、蝿、蟻、蜂。

エンパスか非エンパスかという区分は存在しないのだと氣付く。人間も生物の一員として、エンパシー(感受性)の可能性(potential empathy)を持っている。感受性のアンテナは本来カメラのフォーカスのように自在に動かせる。

内側に向ければ内省となり、外側に向ければ現実世界の認知、さらに見えない心という部分に向ければ感受となる。

これがなぜ阻害されるのか。答えはストレスにある。ストレスとは一体何か。僕の答えは、全てのストレスは己が生み出す幻覚。

他者からストレスを受けているように感じられるものについて考えてみよう。他者がやっていることは単なる行為でしかない。その行為をどう受け止めるかを決定しているのは自分だ。

ストレスというものは、解決していない課題意識と言い換えることができる。

その課題に対して取り組むとき、解決策の定義において自己責任下にないものを組み込むことで本来の正解からベクトルが変化してしまう。それは解決できないストレスという思い込みによって支配され、自身のpurityを汚染する。

purityの確保はempathyやsensibilityの確保において必要不可欠なものだ。

アンテナのスイッチを入れなければ感じ取ることはできないし、アンテナのスイッチが入っていても処理系である脳に正しく伝わる神経経路の健全性が確保されていなければ情報は歪む。さらに伝わってきた情報を解釈する脳を支えているのは肉体すべてである。健全な栄養補給、酸素供給、二酸化炭素や老廃物の処理、処理を支えるエネルギー源を処理する健康な肉体。


先日早朝、タバコを吸うためにパートナーの家のベランダに出たら、目と鼻の先にある電信柱に、2羽の雀が止まって何か会話をピーチクパーチクとしていた。

「おはよう、いい天気だねぇ」と声をかけると、もう2羽がどこからともなく飛んできて、僕と一定距離を保ちながらも、さらに何かをピーチクパーチクと言い始めた。

僕はなんとなく、あそうか、お腹すいてんのね、と感じて、台所から生米を一掴み持ってきて、ベランダの手すりの上に撒いて、「これ多分美味しいから食べな〜」とひとりごちて、ベランダを後にした。

ガラス越しに、雀たちがご馳走を食べているのがわかった。

それからもう、僕はその雀たちと友達である。


ある日散歩をしていたら、カラスがいた。なんか大騒ぎしているので挨拶した。カラスに挨拶をしたことがあるだろうか?

カラスは返事をしてくれる。そしてきちんと感情を伝えてくれる。こちらが優しい心持ちで話しかけると、どんなにうるさくしていても鳴きやんでくれる。カラスは僕と深い関係がある。どちらかと言うと嫌われ者な鳥だけど、カラスはとても賢くて、僕にとっては神の使いのような存在だ。


蝶ともよく出会うので、よく会話する。蝶は導く力を持っている。ひとりで解決できない様々なことに答えを出してくれる。今自分が間違ったことをしていないかどうかも教えてくれる。


蜂、とくにミツバチとクマンバチ。彼らもいろんなことを教えてくれる。そして何より彼らを尊敬してやまないのは、彼らはとてもフレンドリーで勇気ある存在だからだ。そして根っからの楽観主義者である。


我が家の軒先ですくすくと育っている多肉植物。こいつらの自由奔放さと高貴さには目を見張るものがある。とても高貴なので悪いものを寄せ付けない。
植物も話しかけるときちんと反応してくれる。


家も生きてるって知ってますか。風水に頼らなくても、その家と会話をすれば、何をどうすべきか自ずとわかる。人が住まない家がなぜあんなに早く朽ちていくのか、不思議だと思わないだろうか。家と会話する方法もきちんとある。


こうした話を馬鹿な話だと思う人は、動物や虫や家と会話ができるようにはならない。
だって信じてないんだもの。
信じてないものは見えないように出来てる。
信じてないものは手に入らないように出来てる。
色即是空。空即是色。


僕が神様と話をしたことがあると言うと、僕の頭がおかしいと思う人が少なからずいる。でもそんな人たちに、神とは何かについて教えてあげるつもりは全くない。他人が信じてないものを信じさせることなんてできないからね。
神というものはオカルトでもなんでもなく、比喩と言っても良い。この世は暗喩だらけ。フラクタル。それだけ書いておこう。


伝わるべき相手と伝わらないべき相手があり、それを決めるのは僕ではなく、神の摂理。僕の手の及ばないところにあり、それは常に最適解だから疑う必要はない。

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