絶望・希望

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あの時、僕は生きることを諦めようとしていた。

汚れたもの。汚れた人。みんな自分さえよければいい。他者との調和について思いを馳せることもない。僕はずっとずっとやってきた自分だけの試みがうまくいかないことによってエネルギーの限界を感じていた。そしてこの世界に絶望していた。

すると、死の予告がやってきた。

願いというものは叶う。

死に瀕したのちに思うが、いままで生きてきた中で、あれほど深い絶望と悲しみに暮れたことはなかった。そう、心臓発作が起きたあの日。

僕はすべての過去を断ち切ろうとして、様々な繋がりを否定していた。

汚れた世界。僕にはその汚れがどうしても耐えられなかった。

その汚れが自分の外に中にある。クソムシ。

けれど自分なりにあがいていた。

それが神によって認知されていることを知り、さらにその先に飛び込む勇気を出せと諭されたのが、僕の臨死体験だ。

ここから先は、何も期待していないのだ。

僕は2019年5月24日に死んだ。

いや、死んだはずだった。

これから先も、いつ死ぬかもわからない。これを書き終える前に死ぬかもしれない。

そしてそれが、自分の中に棲み着いた汚れた欲望を切り離して消し去るためのヒントだった。

「いったい何のために、それをやる?」

僕は、僕の魂が欲することだけをやる。ただそれだけのために、命日だったはずの日を越えて、神の赦しを受けて、生き続けているのだ。

この感覚はどれだけ思いを込めて書いても、理解されないことはわかってる。

もしかしたら同じように臨死体験をした人ならわかるかもしれない。

それは究極にリアルで、消し去ることは不可能。

絶対というものは、この世には存在しないように見えるかもしれないが、あの世界にはある。

絶対的な存在。

「それが自分の内側にあるのか、それともどこか別の場所にあるのか」

その会話は無意味だ。概念のレイヤーが決定的に違う。

それは内とか外とか、そういう概念で説明することはできない。

わたしは孤独だ。孤独であることを認識して受け入れた。

人間は生まれてから死ぬまでずっと孤独なのだ。

理解されたいなどという願望はただの欲望に過ぎない。エゴである。

それでは、わたしはいま、なぜ生きているのか。

わたしは考えることをやめたのだ。

感じるままに、本能とでも直観とでも呼べばいい、心の中にある光り輝く方に向かって、ただ引き寄せられているだけだ。

いまこの瞬間、なにをすべきかなんて知らない。

なにがベストかなんて、知らない。

そんな捉え方は、個の存続を前提としているからだ。

わからないものは、神の采配としてただ受容するしかない。

わたしがここに存在する意義は、心を澄ませばよくわかる。

いまこの瞬間とるべき行動は、衝動として現れる。

それが等身大の自分を受け入れるということだ。

駆り立てるものを感じるときは、駆り立てるものを与えられた喜びを感じ取る。

わたしはそうやって、今を生きている。

現世に未練がないかというと、

ないのだ。

この世に僕は、大好きなことがたくさんある。

それらと別れを告げるのはとても悲しいことだけれど、

それはいつか失われてしまうものだということを知っているから、覚悟はできているのだ。

肉体は失われても、永遠に失われないものが何であるのかを知っている。

それを見せてもらったから。

わたしたちは、目に見えないもので繋がっている。

それは皆さんが思うよりもずっとずっと深く感動的であり、

想像を絶するような幸福と、安心の世界なのだ。

僕はそれを見せてもらった上でこの世界に戻ってきた。

それは特別なことなのかもしれないが、他の皆もそれを知らないだけで、与えられるという事実においては、公平なのだ。

この世に救いを求めても無駄。

この世には汚れたものがたくさんあるし、この世には理想郷は求めても現れない。

なぜなら、それは求めるものではなく、与えるものだからだ。

それを勘違いしている人がたくさんいる。

わたしたちが、この世界を任されているという事実。

救いは求めるものではなくて、与えるものなのだ。

そうして人生を全うして死を迎えたその先には、

魂の純粋さに応じた、幸せの世界が待っている。

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