Collection

この記事は約2分で読めます。

奇跡的なことに遭遇すると人は、いま持ちうる知識のなかで解釈しようとする傾向があるようだ。それは行動としては真であるが、安易に結論付けてしまうことは偽につながるため、その対策として適度な客観性を評価基軸として持つことが、より広範な視野と高い実際性や整合性を破綻させないための鍵となる。

そもそもこの宇宙は統一解とか最終ゴールを論理的解釈によって導き出すことができる構造をもたない。事象はすべてフラクタル的であり、混沌の中に見出す儚い秩序の投影する幻像の集合であり、解釈という名のフィルターによって起きる錯覚に名前をつけようとする行為に勤しむことは理解の対極へと向かう航路だ。

たとえば物理学において分子という構造体が発見される。さらなる観察によって原子が発見される。さらに細かく見ていくと素粒子が発見される。素粒子の共通性を掘り下げていくとこの世界はすべて「超ひも」で成り立っているという説明が可能になる。その先も無限に続くのだ。しかしこれをいくら紐解いたところで観察の結果でしかなく、繰り返す「なぜ?」の答えは逃げていくばかりのように見えるのだ。

銀河ヒッチハイク・ガイドにおいてハツカネズミは、「すぐれた知性をもった汎次元生物がわれわれの三次元に突き出している部分」である。ハツカネズミ達は「生命、宇宙、そして万物についての究極の疑問の答え」を知るために、全時代および全世界において2番目に凄いコンピュータ、ディープ・ソートを作った。そのコンピュータが750万年かけて出した答えは「42」だった。

我々が現世において宇宙を解釈し続けている限り、我々は真理の輪郭をなぞることはできても、真理そのものを理解することはできない。

「より高みを目指す」の「高み」についてわたしたち人類はある程度の認識を共有している。それはなぜ共有され得るのかについて洞察を巡らせてみるのも楽しいとは思わないだろうか。

外部に答えを求めてしまうことは逃げである。外部にはパラダイムシフトを起こすためのきっかけとなり得るヒントが無数に溢れているが、答えを得るために外部依存してしまっては意味がないのだ。

探求というものには、チートや抜け駆けという概念すらない。

コメント