会計業務に追われて2週間ちょっと。もはやストレスは最高潮。
しかしこういう時に限ってさまざまなアイデアが降ってきて、創造の欲求を刺激しまくる。さらに、夢で啓示を得て長年の謎がいくつも解けていく。養老孟司先生の表現に倣えば、「抜かない棘が抜けていく」。
そしてまた面倒臭いことに、僕は「実際には追われていない」ということや「この手のストレスは必要で必然」だということを知っている。
そう、追われていない。会計業務が終わるのは、会計業務が終わるときである。デッドライン(締切)を設定しているのは、あくまでわたしの希望的観測、期待、さらに掘り下げて表現すれば、欲望でしかない。わたしたちは普段の生活において真理の表層を頼りなく辿ることしかできない。会計業務がいつ終わるのか、それは神の手に委ねられているという言い方もできる。そしてわたしたち人間が矮小で頼りない左脳の大脳皮質のさらにごく一部で幻想とも現実ともつかぬ推論を立てた、ベストと思い込んでいる結果予測にもとづくベストなタイミングは、ほぼほぼ外れる。誠実さを怠らずに日々を繰り返していれば、間違いなく正しいタイミングというものは、わたしたちが意識化でそうだと思いこんでいるものとはかけ離れている。それを感じ取るためには、普段ビジネスのような人間がつくりあげたルールのもとにある行動原理とは異なる感受性の使い方を経る必要がある。
そして今回のようなストレスについては、エンジンに例えると、爆発する前には圧縮が必要であることと同じだ。わたしはその圧縮比を極限まで高めることを無意識に受け入れているだけで、表層的な感情はこのストレスに対して大きな拒否反応を示すのは当然のことだ。しかしこれは「苦しいこと」であると同時に「嫌なことではない」が成り立つ。これがサインだ。「苦しいこと」は必ずしも「嫌なこと」とイコールではないということ。視点を変えて表現すれば、「苦しさ」という感性と「嫌悪感」というアウトプットを分離し、それが異なるものだという認識を得るということは、永劫回帰的にわたしたち人類ひとりひとりの精神的成長において必要不可欠であることがわかる。
ということでとどのつまり、「なんくるないさー」「開き直る」というところに落ち着くわけであるが、これは与えられた課題やストレスを放棄するわけではなく、受容するということなのだ。
わたしはよく「神の啓示」を得る。この言葉はよくよくうまい説明をしないと完全に誤解される。神という人間の上級版みたいな人が日本語で「おまえはこうしなさい」とか「これはこうである」とお告げをしているわけではない。神の啓示というものはイメージ・ビジョン・あるいはその源泉となる何か説明のつかないもの、たとえば情報、ロジック、それらの集合体のようなものに対するアクセス経路が開く(接続される)ような体験だ。そしてそれがただの情報でないところは、大いなる意思があるところだ。大いなる意思は「神様という自分とは別の存在が勝手に持っているもの」ではなく、それは普段認識している自分ではないのだが自分はその一部でもあり、それ自体が自分の一部でもある。言葉で説明できるようなものであれば、きっと誰かが既に説明しているはずなので、これ以上は説明しまい。ただ世の中には、僕が伝えようとしている「なにか」を理解しかけている人や理解している人、つまりこの話に「共感できる人」は存在する。だからこそ、現在過去未来の世の中の多くの人が、それを表現しようとしてさまざまなものを創造してきた。芸術作品と言われているものはわかりやすい。絵画、音楽、映像、彫刻、伝統芸能、宗教観、伝記、おおよそすべての人類の人生哲学にかかわる源泉はそこからやってくる。
ところで僕は苦しいことを正直に「苦しい」と言いまくるけれども、「嫌だ」とか「脱出したい」とは思っていない。僕が苦しんでいても、「助けてほしい」と伝えるまでは、ほっといてもらいたい性分である。自分でやるべきだと分かっていることをやるときは、苦しいとか面倒くさいとか弱音は吐くし、弱音は吐いていいものだと思う。ただそこで注意しなきゃならないのは、本人(自分)はそこで現れた「助け舟」に本当に乗っかっちゃったらいろいろ不都合なことになるってことと、苦しんでいる人の周囲にいるわたしたち・あなたがたは「かわいそう」という理由で行動を起こすべきではないということだ。それは本当はかわいそうではないのだ。余計なお世話は、本人の成長や目的意識を妨害してしまい、それは優しさどころか、とても冷酷なことをしているということを意識していくとよい。
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