相変わらずのギリギリで日々やっております。
どうすれば加速するのかは、わかっています。でも加速しないで、じっと耐えながら、やれることを、やれる範囲で、決して無理せずに進めてきました。
何事もバランスが大事です。僕は自分の身体を壊して死の淵にまで追い込んだことでようやく究極のバランスを手に入れました。中庸ほど難しい決断基準がこの世にあるだろうか、と思います。
ピラミッドを建てるために石を積んでいる、そんな比喩的な想像をすることがよくあります。
スピードを重視するということは、底辺の狭い塔を建てるのに似ています。多くの場合、自分が人生を終えるまで塔を積み上げられれば問題ありません。だから底辺の広さはある程度限られていて、あとは上に積み上げていくことで目標の高さに辿り着けます。
サステナビリティ(継続性)については昨今SDGsなどと叫ばれており、重要視されてきておりますが、事業や社会貢献といったものに真の継続性を持たせるためには、ゴールである塔の高さを自分の寿命を基準にして決めることができなくなります。僕の死後も発展していくものを作っています。
だからこそ、僕が建てている塔は尖塔ではなく、安定したピラミッド型です。そうなると最底辺の広さはとてつもなく広くなります。僕のイメージでは、そのピラミッドの底辺の角に立つと、隣の角は遥か地平線の彼方に霞んで見えないほどです。
石の上にも三年、という諺が示すように、建てるものが尖塔にしてもピラミッドにしても、3年という月日を地道に積み上げていくと、それなりの成果が約束されています。断言する理由は過去の経験です。三年マジでやった事に裏切られたことはありません。
いま僕の会社は丸3年を迎えました。世の中から見れば底辺にある弱小零細企業でしょう。ろくな資本金も内部留保もないばかりか、役員報酬すらまともに支払えていません。
しかしこれには歴とした理由があります。選択肢は常に無限ですが、ひとつひとつのことに対して間違いなく自分の決断の積み重ねでここまできました。
僕は、得たものについてあまり語りたくありません。何よりも大事なのは、誰に何を与えることができたかです。与えることこそが、生きている証です。死んでいたら与えることはできません。
ピラミッドの頂点を夢見ながらも、日々、自分が与えることができるものについて真剣に向き合ってきました。相手に伝わらないと感じることも多々ありましたが、不思議なことにそれは、必ず伝わるのです。途方もない時間がかかることもあります。それでも必ず伝わります。
そして僕は、ピラミッドに石を置くために集中したい時でも、日々目の前に現れる、与えるチャンスを優先してきました。それが不思議なことに、石を置くことに繋がるのです。
僕の価値観は相当に変化しました。変化というよりも広がったというほうが正確かもしれません。
そのうち思い至りました。ピラミッドに石を置いて完成させることにへの執着を手放せば手放すほど、そのピラミッドは完成に近づいていくことに。
なんて幸せなんでしょうか。
現時点で、お金は無くとも、人々に愛されている。必要とされている。必要とされているからこそ、与えることができる。ただ与えるだけでなく、自立を促すことができる。そして相手も自分も本物の信頼関係に幸せを感じながら、楽しく仕事をしたり生活をしたりできる。
はたと思い至りました。
人生は、引退してから本物が試されると。
僕は実に多くの組織で働いてきました。辞めるたびにそれは引退でした。すると次の課題が現れて、それをまたこなして、引退して、の繰り返し。
結果を出す、ということは、目先の結果と、巨視的な結果と、どちらも見据える必要があると、強く感じます。
何かとても尊いものが生まれ、育ち始めています。僕にはそれがまだうまく説明できないのですが、それは僕自身が意識していなかったことで、無意識に求めていたものだと感じます。
ピラミッドの底辺の建設が終わったのは、3年ほど前だと思います。
今そのピラミッドは、とうとう雲の上にまで達しようとしています。たまに、雲の上の景色が見える(具体的に想像できる)ようになってきました。願ったことは、真剣に取り組めば必ず成就します。
あまりにも大きなピラミッドなので、雲の上に出たからといってまだまだ続きがあります。それでも既に、周りにある尖塔や小さなピラミッドの高さを越えようとしているのがわかります。来年中にほとんどの尖塔やピラミッドの高さを超えるでしょう。
世間に理解を得るのはそのあとです。結果を出さなければ意味がないからです。
やってみて、やらせてみせて、褒めてやらねば人は動かず。
いまや太陽の光を燦々と浴びて、神々しく輝くピラミッド。
マインクラフトでも作ったなあ。完全に自己満足です。でもそれは、価値があるのです。
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