単純とは

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自分にとっては常に単純さの極みであることを万人に説明しようとすると、なぜか説明そのものは複雑になってしまう。多段階に枝分かれした説明不十分な定義にまで及ぶ議論になってしまうことが避けられないので、説明の過程で誤解がないように共通認識の階段をつくりながら説明するためだ。それは主張が詭弁にならないためにも、内容を公平な議論の場に置くためにも、たいへん重要な過程だ。

「単純なものを万人に説明するときに説明が大変になる」
ということは、万人が定義する「単純さ」と僕の定義するそれの間に決定的な乖離があるのだと思う。

しかし僕の話をよく理解してくれる方もいるのだ。それは僕が間違っているとか間違ってないとかいう話ではなくて、同じようなものの見方をしている人が僕以外にもいるかもしれないという仮定がまだ有効だということだ。

僕から見ると理解しようとしてくれない方々が複雑怪奇なルールを無意識に設定しているように見える。しかし議論には双方共通の認識という土台が必須だ。

社会が複雑なのは、それを求めたりその複雑さに依存した何かしらの利害関係とそれを生む流れがあるからだ。視野を狭めて一時的な議論を行うのは楽しいし、それが「疑問」や「問題意識」を解決してくれるように「感じる」が、それはワークアラウンドにはなったとしても永遠の解に到達する妨げにこそなれど助けには全くなり得ない。

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