風の音色

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水の章

壊れた心、真っ直ぐな心。

入り乱れた心に染み入る。

それは湖畔に届く波紋を追って、対岸で波を立てている源を発見するような作業。

これは僕の心じゃない・これは僕の心だ。それはこうやってわかる。

こうして自他を追う。

傷ついているのはいつも自分じゃない。

本当の自分は傷つかない。

共感とすり替え。

土の章

原因を探ったらうまくことと、うまくいかないこと。

筋道の評価。

子供の頃は皆やってた、仮説だけで生きること。

無知という知。

火の章

なにかを打破したいのだろうか。

同じことを繰り返しているようで、実は毎回違う。

さらに高い挑戦を突きつけられる。

突きつけているのは誰?

乗り越えたらそこには春がある。

ちょっとしたきっかけで噛み合わなくなったギアを見つける困難さ。

人生ってこういうものだ。

風の章

神がどこにいるのかは知らない。

ツァラトゥストラは何と語った?

そんなことよりも大事なのは、ニーチェが神を見ることができなかったこと。

ニーチェが無意味を礎にしたニヒリズムの世界は子供の叫びだ。

「神様、どこにいるの?」

「神様、いるなら返事をして?」

「神様、探しているよ?」

神は追い求めても常に返事をくれるとは限らないし、常に返事をしている。心を枯渇させていくということは波動を低めることだ。そっちの方向に行けばいくほど神は見えなくなる。

無邪気さ。素直さ。

ニーチェはとうとう神様を見つけることができなかった。

ツァラトゥストラはこうして生まれ、語りだした。

世の中の絶望が肯定され、それを拠り所にする人が彼とは違う時代に現れた。

なんと悲しい物語だろうか。

僕は思う。

存在の肯定とは、認識そのものである。

簡単にいえば、

見たことがないものを肯定したり否定したりするのは、あまり得策じゃないってことさ。

室町時代の人にスマートフォンや自動車の存在を説明しても、実物を見せるまで信じてもらえないでしょう。

現代においてスマートフォンは実在可能であることが多くの人に認識されている。

だから、室町時代の人は信じる必要も、疑う必要もない。

宇宙人や幽霊はどうだろうか。

多元宇宙や超ひも理論はどうだろうか。

認識は知識ではない。

どんなに理屈で説明がつくものでも、人が魂の底から認識を肯定できることは常に、実感を伴う必要があるのだ。

神の証明は可能だと思いますか。

プロフィール誌記者はツァイリンガー教授に、「神は自然科学的に理解できないのか」と聞くと、教授は、「神は証明できない。説明できないものは多く存在する。例えば、自然法則だ。重力はなぜ存在するのか。誰も知らない。存在するだけだ」と説明。そして無神論者については、「無神論者は神はいないと主張するが、実証できないでいる」と述べていた。

神の存在は証明できない。

それでは、宇宙すべては偶然に誕生したものだろうか。ツァイリンガー教授は、「偶然でこのような宇宙が生まれるだろうかと問わざるを得ない。物理定数のプランク定数がより小さかったり、より大きかったりするならば、原子は存在しない。その結果、人間も存在しないことになる」と指摘している。宇宙全てが精密なバランスの上で存在しているというわけだ。

プランク定数がこの宇宙に与えられた事実は、この宇宙が常に1/∞を選択(反応の連鎖)し続けているから。

エントロピーとは何かについて想像してみるといい。この宇宙のエントロピー。別宇宙のエントロピー。宇宙と宇宙をつなぐエントロピー。エントロピーのない宇宙。

この宇宙に与えられたパラメータを、人類が自然発生的に定義した(つまり人間の自由勝手な視座)で説明しようとすれば、おおよそ次のようなことになる。

プランク定数(h): 6.62607015×10−34 J⋅s

プランク定数とは、光子のもつ「エネルギー」と「振動数」の比例関係をあらわす比例定数のことだ。

これは現宇宙における量子を特徴付ける。

プランク定数は量子論的な不確定性関係と関わる定数であり、h → 0 の極限で量子力学が古典力学に一致するなど、量子論を特徴付ける定数である。

軌道角運動量やスピンは常に換算プランク定数の整数倍か半整数倍になっている。例えば、電子のスピンは ±ħ/2 である。なお、量子力学の分野では ħ = 1 とするプランク単位系や原子単位系を用いる場合が多く、その場合の電子のスピンは ±1/2 となる。

プランク定数は位置と運動量の積の次元を持ち、不確定性関係から位相空間での面積の最小単位であるとも考えられているが、最近では Zurek らの研究で、量子カオス系においてはプランク定数以下のミクロ構造が現れる事がわかった。

プランク定数 - Wikipedia

2019年に定数化された。つまり確定の共有による視座の尖鋭化を人類はいったん受け入れたのだ。

それによってキログラムの定義も更新された

それによってディラック定数(プランク定数を2πで割った値)も確かなものになった。

ディラック定数(ħ): 1.054571817...×10−34 J⋅s

プランク定数(ディラック定数)は、物質がもつエネルギーを決定づける値だ。

超ひも理論において、すべての物質(光、重力、電磁力、グラビトン、電磁波を含む)は1本の「超ひも」の振動として表す。

超ひもの振動数が大きいと質量やエネルギーが増える。

プランク定数が少しでも違う宇宙だったら、すべての物理法則が変わる。

そういった宇宙があるのか、ないのか。

ここでようやく話はM理論までたどり着く。

 しかし,近年,定数をめぐる問題は秩序どころか,いっそうの混乱に陥っている。究極理論の最有力候補は,ひも理論から派生した「M理論」と呼ばれる理論だ。M理論が矛盾なく成立するには,時空の4次元に加えて,宇宙にさらに7つの次元が存在しなければならない。ここから推測できるのは,私たちが認識している定数は,実は根本的な定数ではないかもしれないということだ。本当の自然定数はすべての次元をそなえた高次元空間にあって,私たちはその3次元の「影」を見ているにすぎない。

 むしろ,「定数」という呼び方自体が正しくないのかもしれない。私たちの定数は,時間によっても空間によっても変化する可能性があるのだ。余剰空間次元の大きさが変われば,それに伴って私たちの3次元世界の「定数」も変わるだろう。はるか遠くの宇宙を見つめれば,「定数」が異なる値をとっているような世界が見えてくるかもしれない。

 1930年代以降,研究者は定数が一定でないのではないかという疑問を抱くようになった。この考え方はひも理論によって理論的に信憑性の高いものとなり,定数の変化を探すことが重要な課題になった。

https://www.nikkei-science.com/page/magazine/0509/invariable.html

こうした理論展開の先にはなにがあるのか想像できるだろうか。

新しいものごとのゴールは、新しいが故に常に想定外にある。意識はどうやって想定外を想定するのか。閉じた空間においてこれはパラドックスのように見える。

わたしたちの想像力や直観はどこからやってくるのか。

原因と結果の法則というものは時系列なのだろうか。逆もあり得るのではないか。より単純化するのであれば、原因と結果という視座にエラーがあるのではないか。

原因は結果であり、結果は原因であるという仮説を立てたとき、視座はどこになるのか。

われわれは数式によって神を感じ取ることができる、これまでもそうだったように。

そして迷路の奥深くに入れば入るほど、その存在を身近に感じることはできる。

しかし決してたどり着くことはできない。

例えると、

テレビの技術を発達させて、高精細化や大画面化をすすめていくとする。三次元表現もできるようになるかもしれない。

そこに映るものはよりリアルに見えてくるだろうし、いままで見えなかったものも見えてくる。

初期のテレビでは、タレントの毛穴や、森を成す1本1本の木まで見分けられなかったが、4Kや8Kのテレビではそれが見える。

しかしいくらテレビの技術が発達しても、実物に触れることはできない。

テレビに映る風景やタレントがいくら高精細でリアルになったとしても、被写体の存在を証明することはできないのだ。

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