映画「ターミネーター2」をふと、思い出した。
あの作品でアーノルド・シュワルツェネッガーが演じた、人の姿をしたロボット「ターミネーター」は、任務遂行のためにあらゆる手段をとり、学習もする。
ターミネーター2では、ジョン・コナーが母サラ・コナーを守るために、未来の世界からプログラムを書き換えたターミネーターを現代に送り込む。ターミネーターは襲いくる敵に腕をもがれ、足を壊され、下半身を失っても、任務遂行のためにできる限りの行動をとる。
任務に忠実である冷酷な機械。ところがターミネーターはジョン・コナーから「感情」を教わり、徐々に理解していく。この「感情」とは何なのか。笑ったり泣いたり怒ったりするこれは、ただの条件反射的なものであるのか。
動物の行動を見ていると、このターミネーターの行動に似たものを感じることがよくある。
いま、にゃーちゃんは下半身がだいぶ麻痺してしまっている。2人の獣医さんに診てもらったが、確定診断に近づくためにはMRI撮影するしかない。現時点で可能性が高いのは何らかの原因で脊椎の神経が腰のあたりで障害を抱えてしまったか、あるいは何らかの原因で脳に障害が起きたか。
足を引き摺りながらも普段どおりの生活をしようとするにゃーちゃんを観察していると、ターミネーターの姿と重なる。
にゃーちゃんには絶望もなければ、悲観も楽観もないのがわかる。
自分の身体が自由に動かないことを認識しているのかどうかもわからない。ただ、「どうして?」とは思っていないのだろう。ただただ、生きるために必要な行動をとろうとする。自分がこの先どうなるかについても考えていないのだろう。
「いまを生きる」
その純粋な姿に胸を打たれる。
わたしは己の不純さを恥じた。
2019年5月に臨死体験をして、毎日を生きていることが最高の贈り物であるということを理解した。
生きるという、素晴らしい経験。
いつのまにかそこに、あぐらをかいてしまったのだろうか。
これをきちんと振り返る必要がある。
にゃーちゃんにありったけの愛を注いであげることができたか。
にゃーちゃんと過ごす毎日毎秒を、悔いなく享受することができたか。
様々な記憶が、感情を正に負に揺り動かす。
感情に負けてはだめだ、まっすぐ見つめなければ。
そうするとだんだん、見えてきた。
にゃーちゃんのほかにも、僕のまわりには様々な関係があって、いのちがたくさんいる。
にゃーちゃんだけのために生きることはできなかったが、その瞬間瞬間、悔いのないようにすべてを出し切って生きてきたって、自分を認めることができた。
だからこそ、後悔はないのだ。
にゃーちゃんと一緒にいてあげられなかった時間は、たくさんある。けれども、その時間は常に、それだけの理由が認められるたいせつなことのために使ってきた。
たいせつなのは、いのちだ。
僕がどれほどにゃーちゃんのことを愛しているのか、言葉にすることはできない。
しかし同じように、溢れ出る愛情でいっぱいになってしまう相手が、僕にはたくさんいる。
そんな存在たちとの関わり合いにおいて、僕は後悔したくない。
受け入れなければならないことは人生にたくさんある。それらはすべて、意味がある。意味を識るのは未来。今はそれがわからなくても、信じる心をもつことが大事だ。
思えば、いつも僕が語っていることばかりだ。
人生は楽なことばかりではない。
でも、改めて思う。意味のないことは、ひとつもない。
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