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常識を疑うとは、自らを試練の谷に突き落とすことに他ならない。

自信は、試練の谷を潜り抜け、真理の業火に焼かれてもなお残ったものを認めて初めて自分のものになる。

常識の名の下に自らの行いを怠惰に貶めれば、相応の結果を導く。結果を潔く反省し、自らが変わる決意を持ち、変わったことを認めるまでの過程によって、身に成る。

人は他人の姿や言動を目の当たりにするが、自らの姿は鏡なくして見ることはできないし、自らの行いは他者という心の鏡なくして観ることも難しい。

神社の境内の中央には鏡がある。神社は旧くから己と向き合うための神聖な場所。

心の姿を映す鏡は人間でなくてもよい。人間は言葉を使うから、嘘も混じりやすい。動物、草木、風、海、太陽、己を取り囲むあらゆるものは、鏡として役立てることができる。

僕は言の葉を駆使して他人が知らないことを押し付けようとしたり教えようとしたりはしない。言葉はよくてヒントにしかならない。

相手に感銘を与える言葉とは、相手の知らなかったことを教えることではない。言葉になっていない相手の心象を言語化して伝えることで、元々心の中にあって言語化されていないものが言の葉として現れ、無意識から意識に降りてきた自らの美しさに人は感動するのだ。

これは言葉に限らず絵や音楽など、すべてのアートに言える。だから例えば同じ曲でも人によって解釈も異なれば感動の度合いも質も異なるのだ。

己の認識を中庸のもとに背筋正しく保つには、相手を信頼する根拠に向き合うことから逃げないこと。違和感があればそれがどこに端を発するものなのか、安易で飛びつきやすい結論にしがみつかないこと。

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